第22章 帰る場所
ミレイユは今日が週末で良かったと心から思った。閉架書庫での資料探しから一夜明けても、まだその衝撃が頭の中を占めていた。
ついつい昨日の出来事を思い返して手が止まり、いつの間にやらトビアスとの約束時間が迫っているのに気がついて慌てて家を飛び出した私は、息を切らせて待ち合わせ場所に駆け込んだ。
「お待たせ! ごめんなさい、ちょっと遅れちゃった!」
「問題ないよ。今日は元気そうだね」
彼はいつもの人懐っこい笑みで迎えてくれた。
私は彼の腕を取り、プロムナードをゆっくりと進む。まだ僅かに冷たさを孕む春風が、蒸気した頬をさらりと撫でる。柔らかな日差しには土の匂いが混ざり、足元には緑の芽が控えめに姿を見せ始めていた。
「あの辺に陽が当たってるから、そこにシートを敷きましょうよ」
「いいね! 俺やるよ、ちょっと待っていて」
ふたりは心地良さげな場所を陣取り、トビアスは持ってきたかごの中身を披露した。
「これ、春の新作! ベリーのマカロンなんだけど食べてみて! こっちはピスタチオで、それからきみの好きなフィナンシェもあるよ! それでこっちは……」
次から次へと色とりどりのお菓子を取り出す彼に、思わず笑みがこぼれる。
「ふふっ。じゃあまずは新作から頂こうかな」
ころりとしたマカロンをそっと口に入れる。さくりとした生地に春らしいベリーの甘酸っぱさが口中に広がり、うっとりと頬に手を当ててその味を堪能する。
「うーん! やっぱりベリーは最高! ジャムがちょっとプチプチしてるのね」
「そう、少し形を残したのがこだわりどころさ」
雲ひとつない空のような明るい笑顔のトビアス。自分が腕を振るったお菓子を私がぱくぱくと食べるのを、にこにことして見守っているその表情がとても眩しかった。
遠くから、きゃあきゃあという子供たちの声が聞こえ、少し離れた場所には広い花壇が見える。雪解け水を含んだ土からは、空のかけらのように青い可憐な花がいくつも顔を出していて、ふるふると風にそよいでいた。
家から持ってきた水筒から、カップにコーヒーを注ぐ。時折り風が吹くものの、彼とくっついて座る身体の右側は、じんわりと暖かかった。私は甘い香りのするトビアスの肩に、こてりと頭を乗せた。
遠くに揺れる見覚えのある青い花。
そう、あれは――
ネモフィラの花と、子供たちのはしゃぐ声。
それらが呼び起こす夢の記憶。
幼い手でこしらえた花冠。
それを頭に載せられ、眉を下げた男の子の姿。
私はしばらく花から視線を逸せないでいた。
「……顔色は、良くなってきたようだね」
そう彼に話しかけられて意識を引き戻す。黙り込んだ私の横顔をじっと見ていたようだ。
「あ、うん。最近見る夢は前と違って苦しむことは少ないの。それに夢に何か手掛かりがないかなって考えるようになったから、少し気持ちも落ち着いたみたい」
「それは良かった。……利用者さんと夢について調べるっていう話はどうなったんだい?」
「実は昨日、図書館でそれを調べていたのよ」
夢に出てくる国の名前が古い資料に残されていた。その発見をやや早口で説明する私を、トビアスは目を丸くして聞いている。
「すごいな。まさか本当に存在した国だなんて……夢なのに、夢じゃないってこと?」
「信じられないけど、そうなるわよね?」
「じゃあ、夢の中に出てくる人たちも、過去に生きていたってことなのかな」
そうか、と彼の言葉の意味を噛み締める。
私が生まれるずっと前に、生きていた人の記憶。
トビアスは指折り数える。
「ええと、滅亡が1827年ってことは100年近く前か。その国はどうして滅亡してしまったんだろう」
紙にあっさりと書かれた『滅亡』という文字。しかし実際は、国が無くなるという途轍もない何かがあったのだ。歴史の波を突如として身近に感じ、ぶるりと震えた。
「夢の中では綺麗な国だったのよ……王宮があって、花が咲き乱れる庭園があって、穏やかな時間が流れていた。あの国が無くなってしまったなんて」
「きみが見たのが平和な時なら、滅亡するずっと前の時代だったのかもしれないね」
私は眉をひそめた。
「本当にそうなのかしら……最初の頃に見た夢では、内容は覚えてないけれど締め付けられるような感情だけが残っていたわ」
不安に怯える私の背中を、トビアスが優しく撫でてくれる。そうして彼は、ぽそりと呟いた。
「俺も、その夢を見られたら良かったのに」
耳が拾ったその意味を聞き返すように彼を見ると、しょんぼりとして俯いていた。
「夢に出てくる国が実際にあったってことは、きみは夢の中で、その国で生きていたってことだろう? 俺の知らないミレイユが、悲しんでいても、苦しんでいても、俺は何もできない」
そう言って寂しそうに笑うトビアスからは、いつもの朗らかさがすっかり影を潜めていた。
「俺は、どんな時でもきみの力になりたいのに、夢の中だけは絶対に手が届かないんだ」
私は思わず彼の腕にしがみつく。
「そんなことないわ! トビアスがいないと、私はひとりで悩んで迷子になって心細くなっていたと思うの」
彼は肩を落としたまま、私の頭にその顔を擦り寄せてささやいた。
「夢の中には迎えに行けない。俺のところに、ちゃんと戻ってきてくれよ」
「もちろんよ、大丈夫。きっと戻るわ」
私はそう伝えて彼の背中へ腕を回し、その大きな身体にぎゅうと抱きついた。




