第17章 気づき
ここ何日も、ミレイユは恐れていた。
本を抱えて館内を歩いていても、貸出業務で利用者と向き合っていても、全く仕事に集中できなかった。黒い服の人を見るたびに青ざめ、人違いと知ってほっとする。
ベルナールさんとの『検証』で、自分と彼は同じ夢を見ているのだと知った。曖昧な記憶と感情しか残らなかった夢が、あたかも現実であるかのような鮮明な夢に変わった。これ以上彼に会えば、夢が更に加速して侵食してくるのではという根拠のない恐怖が、彼にもう会いたくないという気持ちに取って変わる。
しかし私はここの司書で、彼はここの利用者なのだ。逃げ場のない状況で常に心は落ち着かず、目は人の影を探すことを止めらない。行きや帰りの公園では、ベンチに彼の姿があるのではと思うだけで足がすくむのだった。
そして、夜は眠れなかった。
夢から目覚めなかったらどうしよう。
ずっとオレリアのまま戻れなかったら?
だから、寝たくない。
夢はもう、見たくない。
私は、少しずつやつれていった。
*****
「ミレイユ、顔色が悪いわ」
イリスが眉をひそめて覗き込む。
「あ、先輩……すみません、大丈夫です」
「全然大丈夫そうには見えないわ。今日はもう上がってもいいわよ?」
でも、と躊躇っているうちにイリスは私のコートを渡して言い聞かせる。
「司書がそんな青い顔でいたら利用者だって気になるわ。……目の下の隈も酷いわね、ちゃんと眠れてる?」
それには答えられず、じわじわと眉が下がる。
「さあ、早く帰って彼氏の美味しいお菓子でも食べて、さっさと寝るのよ。いいわね?」
イリスに背中を押され、私は渋々と図書館の外へと重い足を動かした。
まだ昼前で人影は少ない公園を足早に通り抜ける。こんな状態でトビアスに会いに行けば心配させてしまうのは確実だ。いくらなんでも仕事の真っ最中にこんな顔を見せるなんて。そう思うと『シェ・デュボワ』に行くことも躊躇われ、しかしこのまま帰宅すれば、家族を心配させてしまうに違いない。
もはや私は一歩も身動きが取れず、街中でひとり茫然と立ち尽くしていた。
行き交う人の足音が随分と遠くから響くように感じる。視界の端にはショーウィンドウのガラスが映り込んでいる。そこに映る生気を失った自分の姿。
それを見るともなしに眺めていて思い当たるものがあった。それは『検証』の話を持ち掛けた頃のベルナールさんの虚ろな顔。
――今の私は、ベルナールさんのあの状態にそっくりではないか。
私はこの時ようやく、彼も同じだったと理解できた。
常識では考えられない事態に直面して、怯えて苦しんだのは私だけではなかった。
彼も、ひとりで苦しんでいたのかもしれない。
夢を見たくなくて、眠れなかったのかも知れない。
自分が誰なのか分からなくなるこの恐怖を、真の意味で理解できる人は、彼しかいなかったのだ。
そもそも、最初はどうあれ『検証』しようと強く迫ったのは私ではないか。
あの夢が何であるのかを知りたかった。
そのくせ『何か』に触れると怖がった。
そうして今の今までベルナールさんと会うことに怯えていたなんて、ものすごく自分勝手だったのではないだろうか。
知らず知らずのうちに足は公園へ向いていた。そして、思い至る。しばらく彼の姿は見ていないことに。
私は自分を恥じた。逃げた私を見て、ベルナールさんは呆れただろうか。それとも勝手だと怒っただろうか。あれから10日。彼は一度も図書館へ現れていなかった。
ベルナールさんが図書館に来なければ、私は彼に会う手段が無いのだと、いま、気がついた。国立大学院で研究しているとは聞いていたが、右も左も分からぬ場所の研究室に行くなどできるわけもない。
――このまま会えない可能性が頭をよぎる。
もう一度、彼に会って話をしたい。
いまは素直に、そう思うことができた。




