009 ちしきと欲求
その日はそのまま別れ、俺は電車に乗り帰宅、千賀も車で帰宅したのだろう。
休みの間、俺は溜まっていた洗濯物を干したり、適当に掃除したりして過ごしていた。
「チスイコウモリ……」
気がつくと、SNSを閉じてそんなことばかり調べてしまう。
チスイコウモリはアメリカ大陸に生息し、主に夜間、家畜の皮膚を傷つけて長い舌で血を舐め取るらしい。
千賀も舌が長くなったりしているのだろうか。赤い雫を舐め取る舌を思い出し、思い出したことを後悔してふるふると頭を振って記憶を飛ばした。
また社会性が高く、飢えた他の個体に血を吐き出して分け与えるのは有名な話だ。
千賀だって、ああなる原因になった『親』個体がいるはずである。俺が親だったら、あんな危なっかしい千賀をそのまま放置するなんてあり得ないと思うのだが。
そしてやはり、狂犬病などを媒介するらしい。しかも、ごく稀に空気感染もあり得るそうだ。
ついでに「ウイルス 殺菌」で調べると、熱湯消毒やアルコール、次亜塩素酸を用いた殺菌方法が出て来た。次亜塩素酸はコロナ禍の時に使った余りがあると言っていた記憶がある。今度シカとか何か衛生的に汚いものを口に入れた後は口腔消毒をしてもらおうと心に決めた。
スーパーで100g98円の豚こま肉を購入し、今安めの小松菜としめじと炒め物を作った。
この肉が、もう少しすると鹿肉になるのかと思うと期待が高まる。
もしかすると、シカが獲れることを一番期待しているのは、千賀よりも俺なのかもしれなかった。
もそもそと自分の作った料理を食べながら徒然なるままに今までのことを考える。
千賀はどうしてあんなにこう、自罰的なのだろうか。
俺は、肉が好きだ。魚も好きだし、他には油揚げとか卵とかも好き。
これらは全て、命ある生き物の一部だったものだ。
俺らは命をいただきながら、生きている。
それは、千賀が俺の血をもらいながら生きているのと、何が違うのだろうか。
奴はいつも「ご馳走様」と言うし、俺は必ず「お粗末さま」と返す。
それで十分ではないのか。
別に人間の血が主食って生き物がいてもいいんじゃないか。
人を殺す訳でもあるまいし。
月曜日。
俺はもう何も言うまいと、無言で研究室の電気をつけた。
千賀はまた少し眩しそうにした。
「おはよう山村。その……大丈夫か?」
「何が?」
「元気ならばそれでいい。早速だが、罠予定地の見回りを頼めるか」
「はいよ」
早速朝一番で罠を見回ると、五ヶ所中三ヶ所の罠の餌が食い尽くされていた。
バケツの塩水も心なしか少なくなっている。
罠はこの三ヶ所で決定だろう。
心持ち多めに餌を撒いてやり、水も足して、罠に仕掛けたカメラのSDカードを全て交換して、研究室に帰ってきたのは昼過ぎだった。
「山村、お疲れ様。少し良いか?」
部屋の前に立っていた千賀が歩み寄って来た。
「はい。何すか」
千賀は何をするのかと思えば、恐る恐る俺の肩から腕を回し、俺を抱き寄せるようにして、
「セクハラです」
恐らく汗の匂いを嗅ごうとしてきたので、俺は思い切り奴を突き飛ばしたのだが、奴はびくともせず、しかし自分のしようとしたことに精神的なショックを受けて後ろによろめいた。
「これから昼飯なんで」
俺は最近キモいなコイツという感情と、休み明けだからそろそろ限界なのかなと冷静な観察とを以て、ふらふらと立ち去る千賀を見送った。
飯も食い終わったので、そろそろ千賀を呼んで来るかと思い、SDカードのデータを移行するようにしてから、実験室へと足を運んだ。
「山村」
千賀は部屋の前に立った俺を言い当てた。なんで分かるんだ。ここまで来ると怖い。
「入りますよ」
千賀はまた部屋の隅で縮こまっていた。こいつそこ好きだな。
「今度は何ですか」
まるで子どもに聞くように、俺は千賀に尋ねた。
「耐え難い」
「何が」
やはり主語がない。
千賀は顔を両手で覆った。
「……先程は済まなかった。その、だっ、」
「別に。それで、俺は何をしたら良いんですか」
「その……手を貸して欲しい」
こいつ、荒木先生の作品に出てくる大量殺人鬼と同じこと言ってんなと益体のない思いが頭を過ぎるも、乗り掛かった船だと、少し躊躇いつつもとりあえず「どうぞ」と奴に手を差し伸べた。
「ありがとう……」
何をするのかと思えば、千賀は俺の手を両手で握り締めてきた。相変わらずかなり冷たい。
千賀は全然俺の手を離してくれず、俺も中腰の姿勢がきつくなってきたので、千賀の前で腰を下ろした。
「これは何の時間なんですか」
俺はこの空間に耐えられなくなってそう聞いた。
何なんだよ、成人男性が成人男性の手を握り締めている絵をどれだけ見せられ続ければいいんだよ俺は。
「……」
千賀は必死になって頭の中で説明資料をまとめている様子だったので、返事があるまで俺は少し待っていた。
しばらくすると、千賀はようやくこの現状の説明をする気になったらしい。
「き、吸血鬼……の物語を読んだことはあるか?」
「まぁ、はい」
「こう、噛みついて、密着して、血、血を啜る……だろう?」
「そうですね」
「そういうことだ」
千賀はそれ以上説明したくないと言うように話を切ったが、それでは何も分からない。
「それじゃ何も分からないんですが」
「うっ……」
千賀は本気で嫌そうだが、この空間を作り出した奴には説明責任があるはずだ。
「……満たし、切れなかった」
「だから何を」
「血は、君からもらっている。歯が疼くのは、まだ良かった。自分の腕がある。温もりだけが、満たせなかった」
千賀はそれ以上説明する気はもうないと口を閉じた。
だから、仕方なく俺が聞いてやることにした。
「あー、つまりだな。本能的なものとして、血と、噛みつきと、人肌があると」
千賀は俺と目を合わせないまま、重々しく頷いた。
この理解で良いらしい。
「で、血は良いとして、噛みつくのは自分の腕でも良く……いや良くはないが……人肌の温もりだけはどうにもできなかったと」
「はい……」
千賀は目を強く閉じて項垂れている。
別に説教している訳ではないのだが、まるで千賀は自分がとても悪いことをしているかのような態度でそこにいる。
ちなみにこの間も手は離してくれない。
段々と手が冷たくなって来ている気がする。
「で、いつ離してくれるんすか」
「ッ悪い!」
千賀は慌てて俺の手を離したが、最後の滑らかな指が俺の掌を名残惜しそうに撫でたのを、俺は見逃さなかった。
「はい、ほら」
俺は改めて差し出していたのと反対側の腕を差し出した。
千賀は理解できないのか、小首を傾げている。
「ただ腕を交代したかっただけなんすが」
「いい……のか? 気持ち悪くない、か?」
千賀は言葉では否定していても、手は正直にこちらに少しずつ伸ばされている。
「普通に気持ち悪いですよ」
千賀の手が止まった。
「でも」
千賀が俺を見た。
「俺が差し出してんだから、あんたは黙って享受してりゃいいんですよ」
千賀は何かを言いかけたが、奴の手は確かに俺を求めていた。




