010 ねずみと傷
今日はてっきり千賀に採血されるかと思いきや、千賀に呼ばれることはなかった。
俺は何意地張ってんだろう、それで苦しむのは奴自身なのにと思うが、奴が呼ばないと決めたのなら仕方がない。
俺は帰る前に実験室の方を見ると、まだ明かりがついていた。
いつもの実験室は千賀くらいしか使う人間……千賀はもう人間ではなさそうだが……がいないから、恐らくまだ中で何かをしているのだろう。
「知ーらねっ」
俺はそのまま背を向けて帰宅した。
火曜日。
やはり千賀は俺より先に出勤していた。
いつにも増して怠そうなのは見間違いではないだろう。
「千賀さん、根を詰め過ぎでは?」
「海堂、さん……」
ふらりと頭を上げた千賀の、海堂女史を見る目にまずいものが混じっている気がした俺は、
「千賀先生、少し休んだ方がいっすよ」
と、海堂女史との間に割って入った。
「あ、ああ山村」
その声に縋るような音を感じた俺は、「ほらこっち」と千賀の冷たい手を引いて実験室まで連れて行った。千賀は大人しく俺に手を引かれるまま、実験室まで歩いて来た。
千賀が鍵を閉めたことを確認すると、俺は千賀に詰め寄った。
「なんで、昨日俺を呼ばなかったんですか」
「……」
千賀は答えない。
その時、ガサガサッと音がした。
目をやると、見慣れない飼育ケースが二箱。それぞれにパンダマウスが数匹ずつ入っていた。
「これ、なんすか?」
「実験用のマウスだ」
つい責めるような口調になってしまったが、千賀は何事もないかのように答えた。自分のことじゃなければ答えるってのかよ。
千賀は疾しいことがあるかのように言葉を続けた。
「私の研究で使うために、至門……会田という、今は◯◯研究所で病理とか研究している友? がいてな」
「そんなこと聞いてないっす」
俺はにべもなく突っぱねた。
千賀はしどろもどろになって、
「な、何が聞きたい。何故昨日君を呼ばなかったかということか。それは、その……そう、このネズミを」
「そんなことを聞きたい訳じゃない」
俺は千賀の言葉を遮って話を続けた。
「さっき、俺が止めなければどうなってた。あれか? あんた、自分の限界も分からないほどに愚かだったのか?」
「……」
「なぁ、答えろよ」
「昨日、山村は、言ったではないか。私は……こんなになっても、まだ人間でいたい。人間で、いたいんだ」
それは、化け物の悲痛な叫びであった。決して大きな声ではなかった。だが、その言葉は痛々しく、千賀の心を突き刺しているようだった。
「いや、人間じゃないだろ」
だから、俺は敢えて突き放す。
奴が目を背けたくなる事実を目の前に突きつけてやる。
「大体な、食生活も感覚も人間離れしておいてよく言うわ。あんたは今、人間の延長線上で人間ごっこしている化け物なんだよ」
「ち、ちが」
「違わない。お前は人間の捕食者だ」
俺は動揺で震える千賀の顔を両手で掴んだ。
マスクを下ろして、むにーっと頬を左右に引っ張ると、そこには唾液で濡れた牙があった。
千賀はされるがままだが、顔を背けられない代わりに目を最大限背けている。
「よーくその動かない胸に刻んどけ。あんたはもう、人間と同じようには生きられない」
手を離したついでに奴の両頬をパンと叩くと、千賀はそのまま床に頽れた。
肩を大きく揺らしながら、嗚咽を漏らしている千賀を、俺は冷めた目で見つめていた。
ゆっくりと顔を上げた千賀はしかし、涙一つ流してなどいなかった。
目を伏せて、「はは……」と力なく笑う。
「この体はもう、泣くことさえ許してくれないらしい」
「それはご愁傷様」
「……私には、選択肢があった」
千賀はぽつり、ぽつりと語り始めた。
「あの夜、君をそのまま襲ってしまうこともできた。今だって、ほら」
千賀が腕を素早く振るうと、パッと赤が舞う。
一拍遅れて、腕に鋭い痛みが走った。
千賀が、俺の腕を切った?
「君は反応できない。はぁ……私はそれをしたくはない。だが、私の身体が、どうしようもなくそれを求めてしまう」
千賀は胸ポケットからティッシュを出して俺の腕の血を拭き取った。やけに準備がいいなと場違いな感想を抱いた。
「山村、私はどうしたら良い? 化け物として人を襲うか? はぁ……それとも、このままどこかで破綻するまで人間のふりを続ければいいのか?」
俺は何も言わない。言う筋合いも、資格もない。
「ああ分かってる、これは私の問題だ。だから、もう、これ以上は君を巻き込みたくはないんだ」
「普通に巻き込まれているんですがそれは」
「それは、すまん……」
千賀はしゅんと謝った。
「千賀先生、あんた、本当に化け物に向いてないですね」
「そう……か?」
「はい」
「そうか……」
千賀は少し落ち込んでいるようにも見えるが、これは自明の理なので納得して次へ進んでほしい。
「私は君を傷つけた。はぁ……それでも、君はまだ私を見捨てないでいてくれるのか?」
「そりゃ、まぁ、はい」
「何故だ」
千賀の目は真剣だ。まるで、捨てられることを恐れている子犬のようだ。
「まぁ、一番は俺が困るからですね。俺はここで経験積んで企業入りたいんで。次は、そうだな……あんたに情が湧きました。他には、普通に変な生き物だから面白そうってのもありますね」
俺は指折り理由を数え上げてみた。
「変な……生き物……」
「違うんですか?」
千賀はふるふると首を振った。変な自覚はあるらしい。
「それと、馬鹿なことしないで下さいよ。血が止まらないじゃないですか」
ティッシュは重く血を吸って赤黒く染まっており、実は千賀の視線もそこにずっと釘付けだった。
「ば、絆創膏……」
千賀は服のポケットから絆創膏を取り出した。妙に準備がいい。
「お気持ちありがたいんですが、大きさ足りないです。俺、先に部屋帰ってますから、これ捨てといて下さい」
俺は血でしどどに濡れたティッシュを千賀に押し付けて、実験室の鍵を開け、扉を開けた。
「もっと素直になって下さいよね」
俺はそう言い残して、研究室に帰った。




