しょゆうと感情
「で? 何をしてほしいんだ」
俺は風呂から上がって、千賀の前に立った。
千賀はもじもじとして答えない。
「ちゃんと言え」
「えっ、心の準備が、あっ」
「何が必要だっていうんだよ。遊びでも椅子でも付き合ってやるから早くしな」
「えっ、えーと、あの……まず、俺の布団の上に来て下さい」
俺が風呂入っている間に、床に布団が敷かれている。
俺は薄い布団の上に腰を下ろした。
何だかカビ臭さの中に男性の汗のような匂いがする。これが生前(?)の千賀の匂いか。
「山村はそのままじっとしてて下さい」
「はぁ」
俺は胡座をかいてじっとしていることとした。
千賀が何をするのかと思えば、まずは自分の布団の上にいる俺を見て、大きく目を見開いている。
まるでこの光景を瞼に焼き付けようと言わんばかりである。
次に、千賀は俺の後ろに回り込み、俺の身体を撫で回し始めた。
俺はやめろと言おうかとも思ったが、俺は俺の意思で布団に乗ってじっとしていることを許諾してしまった手前、嫌だと言うのも憚られたため耐えることとなった。
千賀は特に肌が露出しているところが好きらしく、俺の毛が一方向になるのではないかというくらいに腕や足を撫でまくっている。
どちらかというと、大切なぬいぐるみを撫でるような手つきであるのも、文句を言い辛い要因だ。
肩から背中を摩り摩りと撫で回す。
何が楽しいのかは理解できないが、千賀が楽しいのならば付き合うことは吝かではない。
とうとう、肩から上に手が回ってきた。
俺の首に千賀の手がかかると、千賀はまるでガラス細工を扱うかのような繊細な手つきになった。
俺はくすぐったくて笑い始め、千賀は驚いて後ろに跳んだ。
「くすぐったいよ」
「そ、そうか」
千賀はすっと元に戻って、撫で撫でを再開した。
千賀の指は、ある一点で止まった。
俺の頸動脈だ。
「山村が生きていて、良かった」
「お前が守ってくれたからな」
千賀はその言葉に感情が爆発してしまったのか、俺の上からマントのように覆い被さった。
「山村、山村。もう一回『睦月』って呼んでよ」
「いいぞ。睦月。……ぐぇ」
千賀はギュッと俺を抱きしめたため、俺の肺から空気が抜けた。
「山村は俺のもの、山村は俺のもの」
千賀は上機嫌に俺を抱きしめて揺れている。
「違うぞ、俺は俺のもの。今はお前に貸出中なだけだ」
俺がそう言ってやると、千賀はもう堪らなかったようで、畳まれていた掛け布団を自分たちの上から被せてきた。
「俺の巣だ」
「さいですか」
「もう誰にも渡さない。俺だけの山村」
「今だけな」
千賀はそのままずっとスンスンと俺の首筋の匂いを嗅いできたが、舐めたり噛みついたりはしなかったので俺も止め辛かった。
千賀はきっと、弟に俺が奪われるとでも思ったのだろうと気づいた。
両親には、家まで追いかけられるだろうとも。
それが本当に嫌だったのだろう。
まだこいつは、自分の心が土足で踏み躙られていたことに気づいていない。
そこに気づいた時、更に俺への執着が増すのだほうか。
その前に、どこか他の依存先を見つけておきたいものだが、この調子ではそれも難しそうだ。
精神的な領域は知らないが、縄張りという意味では家族に侵犯されていたことを本能的によく分かっているのだろう。
だからこそ、自分の縄張りとなった俺の家で、更に自分の縄張りである布団に執着し、その上に俺を座らせて抱きしめて悦に入っている。
家族にとっては共に寝るという意味の布団だったが、こいつにとっては自分のテリトリーという意味が強いものだったんだろうなと思う。
本当に、千賀の家族とは理解のレイヤーがズレることばかりだ。
「千賀、そろそろ終わりにしてくれ」
「嫌だ、山村をずっと俺のものにしたい」
千賀がここまではっきり言うのも珍しい。
「分かった、じゃあ少し話でもしようか」
俺は少し布団の中で息苦しいと思いつつも、千賀の話を聞くこととした。
「俺は、そういえば家で自分の話ができなかったのではと思う」
「ほぉ、それはどうして?」
「俺は、何だか自分のことが分からない。それはもしかしたら、家の中で俺は千賀睦月という役を演じていたからではないかと思ったんだ」
「そうか、お前はそう思ったんだな」
俺は敢えて肯定も否定もしない。
「それはある意味楽をしていたように、少し思う」
「理由は?」
「昔は、両親と弟の言う通りにしていれば良かった。だが、山村と出会ってから、山村は俺のことは俺に選ばせる。そちらの方が、ずっとずっと難しいことだからだ」
「そうか」
俺はそれが千賀に伝わっていたことを少し嬉しく思った。
「山村がそうするのが、最初とてもひどいことだと思った。正解がない問いで、どうして正解を答えさせるのだろうかと。だが、それは違った。正解なんて……ないんだな」
「そうかもしれないな」
正確には、人の数だけ正解があるんだろうな。
「強いて言えば、俺の気持ちがそのまま正解になる。それはそのまま……俺自身というものの発見になった」
「おぉ」
初めてそこで、千賀はずっと無視されていた千賀自身を発見したんだな。
「昔、俺は何もない、空っぽな存在だと思っていたんだ。食べ物も、何もかもの好き嫌いも何もなかった。だが、そんなことはなかった。嫌な事は嫌で、好きなものは好きだ。そんな簡単な事さえも、俺は今まで気づいてやれなかったんだな」
「そうなのかもな」
そういえば会田の血は好きじゃないとか言ってたし、ちゃんと今は好き嫌いがあるのだろう。
嫌な時は嫌と言えるようになったしな。
「山村、俺は何だかそのことを考えると、少し胸がキュっと締め付けられるような感覚がある。これは何だか分かるだろうか」
「知らんがな」
「えっ」
「俺がどうしてお前の感情を全部知ってると思うんだ。それはお前が向き合って、一つずつ名前をつけてやれよ。俺はその手伝いをするだけだ」
千賀は俺の返答に迷子になって困っているようだった。
だから、俺は手を差し伸べてやる。
「きっとその感情は、今まで閉じ込めてきた色々なものがギュッと詰まったものだと思うぞ。だから、少しずつ、何度も向き合って、絡まった糸を解きほぐしていってやらないと、名前をつけるのは難しいかもな」
「そうか、そうか……」
千賀は肩を震わせて嗚咽を漏らした。
きっと、ずっと泣けなかった涙がどこかへ流れていっているのだろう。
これが千賀の巣です。
物置に置かれていたのでカビ臭いです。
千賀の汗が染みていて、あんまりいい匂いではありません。
千賀はここに掛け布団をかけて、巣を作るんですね〜。




