075 まんぷくと別腹
千賀にコスプレさせてみたい。
でも喋ったら全て台無しになる予感がある。
「おはようございます、海堂さん」
「おはよう、海堂さん」
俺たちは既に来ていた海堂女史に挨拶をする。
「おはようございます、千賀さん、山村さん」
海堂女史はいつものように返してくれた。
「山村さんは昨日、大丈夫でしたか?」
「お陰様で、よく寝て元気になりました」
「それはよかった」
海堂女史は微笑んだ。
守りたいこの笑顔。
その時、バキリと嫌な音がしたので見れば、千賀がボールペンを粉砕していた。
「ペン、劣化してたみたいです」
千賀は慌てずにインクを拭き、ゴミの分別をして袋にまとめて捨てに行った。
もしかして、力の加減ができなかったのか?
血をたくさん飲んで、今度はエネルギーが有り余っているのか。
よく見ると、マウスも使わずに不慣れそうにタッチパネルを使い、キータッチもゆっくりやっている。
こればかりは、俺が何とかできる問題ではなかったので、遠くから千賀を見守ることしかできなかった。
昼、俺は海堂女史と昼飯を食っていた。
千賀は怪しまれないように実験室で昼ご飯を食べていることとなっている。
「千賀さん、最近全然取材を受けないからうちに回ってくるって知り合いの教授がぼやいていましたが、何か事情がおありなんですよね」
海堂女史がそんなことを言い始めた。
「何だか私、お二人がいつの間にかどこかへ行ってしまいそうで、不安です」
「そんなことないですよ」
俺は海堂女史を心配させないために方便を言った。
「お二人には、私に話せない秘密があるのは知っています。でも、千賀さんはここでお弁当を食べなくなってからずっと体調が良くないし、山村さんだって最近入院までしたりしてるじゃないですか」
「そ、そうですね」
海堂女史は思ったより人をよく見ていた。
もしかしたら、千賀の正体にも少し予想がついているのかもしれない。
「私は、お二人が何か大きな事件に巻き込まれてるんじゃないか、誰かに襲われたりしてるんじゃないかと心配なんです」
考えてみれば当然の話である。
俺はあまり日を開けずに二度も長い療養をしていたし、あまり顔色がよくない上に体調が優れない自覚がある。
千賀は滅多に山歩きに出なくなったし、異常なくらいに太陽光を避けてサングラスなどを欠かさないし、暑い今でも汗ひとつかかずに長袖である。しかも、研究室にはいつもお茶とお菓子があるのに、一切手をつける様子がない。
対外的に見たらこれは普通に異常である。
俺が海堂女史の立場だったら、普通に根掘り葉掘り聞いているところを、海堂女史は我慢してくれている。
ふと、俺は海堂女史なら千賀の秘密を話してしまって、血を提供してもらえたりしないだろうかと考えた。
「俺は……」
答えあぐねている内に昼休憩は終了し、海堂女史は消化不良という顔のまま、自分のデスクに帰っていった。
俺は今思いついたことを千賀に相談したいと思い、千賀を呼び出して実験室へと向かった。
「どうした、山村」
千賀はキリッと仕事モードである。
いつもこうならばいいんだが。
俺は、海堂女史をこちら側に引き込む案を千賀に話してみた。
「駄目だ」
「だがお前は足りないんだろ」
「そうだが、それは良くない」
「どうして」
千賀は俺に尋ねられて答えにくそうにしている。
「海堂さんは、単なる職場の同僚だからだ」
千賀は持ち前の、俺にだけ適用されない高い倫理観で海堂女史を遠ざけている。
「俺は単なる研究助手だったんだが」
「それはそうだったが、今は俺の大事な人だよ、山村」
千賀は俺の話となるとすぐに俺大事モードに入ってしまう。拉致が開かないので、俺は「それは置いておき」と千賀の伸ばされた腕を避けた。
今握られたら骨を折られるかもしれない。
「他に海堂さんを避ける理由があんだろ」
「あの……彼女は女性だからな。あまり負担はかけられない。今日だって、その……体調が良くないはずだ」
「何が言いたい」
俺は追求の手を緩めない。
千賀は本当に言いたくなさそうに、嫌々と言った。
「彼女の血の匂いに当てられて俺はボールペンを折りました」
俺は千賀の言う血の匂いが何かを考えて、千賀の言わんとしていることが分かり、つくづく難儀な生物だなと千賀に同情した。
「違うんだ山村、今日は調子が良過ぎて良くない」
「はぁ? お前が変態ってことはよく知ってるけど」
千賀は意味の分からないことを言い出した。
調子がいいならそれに越したことはないのでは?
「そうではない、そうではなくてだな……いつもより五感からの情報がきつい。力も抑え切れていない。私は飢えていた方が暮らしやすいのかも知れない……」
「そうなのか」
つまり、俺は近づいたら危ない可能性がある。
俺は一歩後退りした。
「山村ぁ」
千賀は俺に避けられたと思ってか、情けない声を出した。
「いやだって、お前今俺が近くにいたら我慢が効かないってことだろ」
「耐える」
「耐えんでいい。耐えると反動が来るのはよく分かっているだろうに」
「それは……そうだな」
千賀はしゅんとした。
俺は慰めてやりたくなったが教育に悪いので我慢した。
「つまり、お前は今まだ腹が減ってるってことか?」
「うーん……何と言おうか。人間だと深夜にカロリーの高いものを食べたくなっているような気分だ」
それは分かる。
ある程度腹が満たされても、別腹というのはあるからな。
こいつは腹が満たされて体調が良いことが初めてだから、様々な刺激に触れて色々と戸惑っているのだろう。
「というか海堂さんはラーメン扱いなのかよ」
「彼女の血の方が、君よりも血中コレステロール値が高そうな感じがする」
「そんなことまで分かるのか」
千賀はうんと頷いた。
こいつの前で指に針を刺すだけの健康診断があってもいいのでは。
「そんで、海堂さんを引き込むと、お前は海堂さんと共に月に数日間はどうにもならなくなるからやめておきたい、と」
「……はい」
多分、いま千賀の我慢が効いているのは、海堂女史がまだ千賀の食糧認定されていないからだろう。
もし俺が女性だったら、その日に普通に物理的な意味で襲われていてもおかしくない。
「だが、別に血をもらうことだけが引き込むことじゃない。海堂さんはお前のことも心配していたぞ。ある程度情報共有をしても悪くないとは思うが」
「彼女を巻き込む訳にはいかない」
千賀の目には確信があった。
もしかすると、俺のいないところでそんな情報を得たりしたのかもしれない。
「そうだな、分かった」
俺は千賀の話に納得したので、そのまま部屋に帰ろうとした。
「待って、山村」
「なんだ」
俺は千賀に呼び止められた。
「少し山村を充電したいから、付き合って欲しい」
千賀は俺を膝に迎え入れる姿勢を取っている。
俺は少し迷ったが、
「仕事中だぞ」
と、千賀の髪をくしゃくしゃと撫でてから実験室から出て行った。
今回の千賀の頼み方はまぁオッケーだったんですが、千賀の力の有り余り具合と時間帯がダメだったので、断られました。
難しいね。




