007 ほかくと食レポ
次の日。
「マダニはもう付いていなかったか?」
千賀と一緒に、くくり罠のメンテナンスと準備をしている時、そう声をかけられた。
「大丈夫ですって。家に帰って即服を全部脱いで、お風呂に入る時に鏡の前で全身ダニチェックしましたから」
「宜しい。だが、この職場でも着替えのできる環境を整えるのが望ましいな……」
「そうですね。こんなにマダニがいるとは思いませんでした」
「今年は暑くなるのが早いとはいえ、シカの数が多いのだろう。捕獲をするにはいい頃合いだったのだろうな」
千賀と他愛無い雑談をしながら、罠についた泥を取り、スプリングの調子を確認し、螺子の錆がないか確認していく。
「有害捕獲の許可は、来週には取れるだろう」
今日は金曜日。
そろそろ本格的な捕獲に入れそうだ。
俺は、非日常を感じて少しワクワクしてきた。
「俺、久々に鹿肉食いたいですね」
「準備もしたからな。取らぬ狸の皮算用にならぬと良いのだが、胃内容物のサンプルは丹沢の方の研究者が欲しいという話をしていた。第一胃の嫌気性細菌の細菌叢を比較したいそうだ」
シカは、生息場所によって食性が異なる。正確には、毒がないなどで食べやすい植物から食べていくのだが、最終的には毒のあるトリカブトなどまで食べてしまう。
シカは反芻動物であり、胃を四つ持つ。最も大きな第一胃には、空気を嫌う嫌気性細菌が多く住んでおり、植物の繊維であるセルロースを分解する役割を持っている。
この嫌気性細菌の種類を調べたいということらしい。ちなみにすぐ冷蔵保存して即送るとかだったか、野生動物のそれを調べるには、かなりの手間が必要で、まだ研究の進んでいない分野だそうだ。
「俺も頭骨欲しいですね」
「分かった、確保しておこう」
俺もそうだが、千賀も敢えて最も求めているだろうものの話はしない。
俺も切り出しづらいので、話はしない。
俺は罠の歪みがないことを確認して、年代物の「お弁当箱」と呼ばれる罠を試しに稼働させてみることとした。
まずは倉庫の適当な棚の足にワイヤーを巻き、シャックルと呼ばれるU字型の金具で一方を固定する。
次に、「お弁当箱」の縁にワイヤーをかけて、そのまま縁にワイヤーがかかった状態をキープしながらバネをきつく締めてストッパーで固定する。
これで完成。
現場では、これをうまく隠して踏ませる工夫が必要となるが、今回は起動確認だけなので、俺は分厚い普段履きの山靴であることを再確認し、罠を適当に踏んでみた。
カシャン。
軽い音がして、俺の靴は罠に固定された。
「千賀先生、罠大丈夫そうです。俺、捕まっちゃいました」
冗談めかしてそんなことを言えば、気づいたらすぐ近くに来ていた千賀の眼差しがおかしい。
無表情で、食い入るように俺の動きを見つめている。
まずい、食われる。
「冗談ですって。俺はシカじゃないんですから」
そう言い、俺は努めて千賀を無視しながら、罠のストッパーを外すと、俺の靴は解放された。
「それは、良かった」
そう言った千賀が少し残念そうだったのを俺は見逃さずに、
「俺が捕まっていた方が良かったんですか?」
と、つい口に出してしまってから後悔した。
これじゃ、俺が誘っているみたいじゃないか。
「そんな訳ないだろう!」
千賀は少し怒気の孕んだ口調で強くそう返して来たが、言い終わってから、はっと口元を手で押さえた。
図星、だったのか。
千賀は黙っている。
「俺土日は休みなんですが、いいんですか?」
中々言い出せない千賀に、俺は焦れて少し助け舟を出してやった。
「……今晩、付き合って欲しい」
千賀は俺に目を合わせないまま、ぽつりと呟いた。
定時過ぎの実験室で、俺はまた千賀に採血されている。
今日は最初から300mlの注射器を使っている。
「痛くないか」
千賀は俺を気遣っているようだが、
「痛いと言えばやめてくれるんですか」
俺は意地悪を言ってやる。
「……」
案の定、千賀は黙り込んでしまった。
そこで、俺は言いたいことを言うことにした。
「千賀先生、あんたさ、もっと素直になれよ」
「何だ?」
千賀は本気で訳がわからないという顔をしている。本当に鈍くて、イライラする。
「いい加減気づけよ、あんたは俺に依存してる」
「あ、ああそうだな。助かっている」
「そうじゃない。そう、まるで、あんたはそれを悪いことのように扱ってるのが気に食わない」
俺の言葉に千賀は黙り込んだが、手だけは粛々と採血を続けている。
「……悪いこと、じゃないのか」
「あんただって、生きるためにやってるんだろ。何が悪いんだよ」
「……」
とうとう採血も終わってしまった。針が抜かれる痛みと共に、少しくらりと感じた。
千賀は「悪いが……」と言うので、俺はまた千賀に背を向けて、奴が食事をする姿から目を逸らした。
千賀があまりにも何も言わないので、俺が耐えきれずに口火を切った。
「俺の血って、どんな味なんですか」
聞いてからまずかったかと少し思ったが、背を向けているので千賀の表情は見えない。
ややあって、千賀は喋り始めた。
「まずは……健康な成人男性。……濃い命の味がする。……脂質がやや多いのか。……塩味がいい。……どこか懐かしい、わずかな苦味……後は……いや、とても君らしい味だよ」
味を確かめながら言葉を選んでいるからか、言葉の間にざらりと舌で舐める音がわずかに聞こえるのが何とも言えない。
「キモい食レポをどうも」
「き、君が聞いたんじゃないか!」
「そりゃ味覚の確認も必要ですからね。で、ご満足いただけましたか?」
そろそろ終わりかなと思い、すっと椅子を回して千賀の方に向き直ると、端的に言うと千賀はまだ食事中だった。
詳しくは、眦を下げてどこか恍惚な表情の千賀は、赤い唇を少しだけ割って出ている白い牙と、これまた赤い舌で血の雫を舐め取るところだった。
大変、目のやりどころに困る。
千賀は俺の視線にいち早く気づくと、顔から表情が抜け落ちていった。
「随分とお楽しみですね?」
「み、見ないでくれ……」
さすがに千賀が哀れに思えたので、俺は「ご馳走様でした」が聞こえるまで、再び壁を無心で眺めていた。いや、本当のところを言うと、千賀の様子が目に焼きついており、無心にはなれなかった。
「お粗末さまでした」
前回と同様にそう挨拶すると、千賀は、
「この後、時間はあるか?」
と言って来た。
そういえば、「今晩付き合ってほしい」とか言っていたなと思い出し、
「別に大した予定もないんでいいっすよ」
俺は千賀の誘いに乗ることとした。




