044 しょくばと讃美歌
うちにも千賀欲しい。
翌朝。
アラームの音より前にいい匂いで目が覚めた。
「おはよう山村」
「おはよー」
千賀が台所で何かをやっている。
欠伸をしながら俺がのそのそと食卓に着くと、トンとコースターの上に冷えた麦茶の入ったコップが置かれた。
湯沸かし器が止まった音がし、インスタントの具が入ったお椀に注がれると味噌汁ができた。
茶碗には白米がよそられ、おかずは昨日のレバニラ炒めとベーコンエッグだ。
「お前さ、昨日の今日で俺をダメにしようとしてない?」
「そんなことはない」
千賀の朝ご飯は溶き卵らしい。
「そんなことあるだろ。なんだこの豪華な朝ご飯は。俺はお前の亭主か?」
「そ、そうだったら良いなって」
変な空気になった。
俺は居た堪れなくなって、お茶を飲んだ。
おいしかった。
今日は千賀はちゃんとジャケットを着込んでいる。曰く、「服装で免除されるものがある」と。
どうしていつもいつも外面ばかりがいいんだ。
車だからいつもより少しゆっくりできて、俺は楽かと思いきや、そんなことはなかった。
食器とか水浸けておけばいいだろと思っていたら、千賀が洗い物を始めようとしてきたので急いで代わった。
全く、油断も隙もない。
千賀はどこからともなく取り出したサングラスとマスクで完全防備だ。
「これは予備だ」
「聞いてない」
ただ、もしかしたら部屋の中でもサングラスはあった方がいいだろう。
目を覗き込まれたら普通に人間じゃないとバレる。
耳はいい感じに髪で隠れている。
千賀は俺の玄関を占領するでかい革靴を履き、俺たちは家を出た。
「おはようございます、千賀さん。山村さん。今日はご一緒なんですね」
海堂女史がそう声をかけてくれた。
「はい、これからずっと」
千賀は早速既成事実を作ろうとしてきた。待て待て待て!
「ずっと?」
海堂女史は困惑している。
俺はため息を吐くと、千賀と話して決めたカバーストーリーを話し始めた。
「千賀先生はですね、ちょっと目とかが悪くなる難病に罹ってしまったんですよ。それで、俺が介護するために俺の家に同居し始めたんすよ」
「そうなんですね」
海堂女史はとりあえず納得してくれた。
「でも、こんなこと聞いたら悪いんだけど、二人は好き同士なの?」
海堂女史は小声で俺だけにそんなことを聞いてきたが、千賀は耳が良いので聞こえており、恥ずかしげに目を逸らした。
「好きと言うか、大事な人ではありますね。どちらかと言えば家族みたいなもんです」
俺は嘘をついても仕方ないと、ある意味正直に答えた。
「そっか。千賀さんには山村さんがいたんですね」
海堂女史の返事は軽くもあり、しかし、少し寂しそうでもあった。
失恋だったのかも、と思った時には、
「仲良しは良いことです」
海堂女史は笑顔になっていた。
俺はこの人と付き合ってみたかったなと思った。
千賀は休職から復職するための書類を書く必要がある。
俺は別に一人で書きに行けよと思ったのだが、千賀は「着いて来て」と言うから、それも仕事かと思って付き合うこととした。
俺は会う人会う人に合わせて必要な情報を開示していった。
「やっぱシカは獲るのか?」
「そうしたい」
「飯になる?」
「なる」
ということで、長らく放置されていたくくり罠の捕獲も再開した。
ただ、ずっと餌をやっていなかったので、また餌付けからやり直しである。
「あんただったら、普通に走ってシカ捕まえられるんじゃないのか?」
「そうだな」
「でもやらないのか」
「人間の制度の中でシカを捕まえないと、都道府県が発表する有害鳥獣捕獲数としてカウントされないからな」
「さいですか」
あくまで人間として、千賀は生きたいのだろう。
平均寿命になった時に死亡届が出されるまでは。
俺は仕事をしている千賀をぼぅっと眺めていた。
千賀は機嫌良さそうに仕事をしている。
メールが山積で大変だろうに。
「Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum」
歌が聞こえる。
バッと振り返ると、千賀が頬杖をつきながら窓の方を眺めて何やら口ずさんでる。
「Benedicta tu in mulieribus……」
「千賀?」
俺は声をかけた。
返事はない。
千賀はここではないどこかを見ている。
俺は千賀の方へ行き、「しっかりしろ」と頭を引っ叩いた。
「今のアヴェ・マリアだろ」
「アヴェ・マリア? 何だそれは」
「讃美歌だよ。お前が今歌っていた」
「知らない」
「知らないのか」
「あぁ」
千賀は知らないで歌っていたらしい。
一体何なんだ。
「というか今のお前が讃美歌を歌うとかマジで冒涜的だよな」
「そんなことはない。『人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない』。聖書の文言だ」
「お前それキリスト教信者の前で言ったら殺されるんじゃね?」
お前が人の血肉を食べるのとそれは違うだろと言外に言うも、千賀は「そんなことはない」ともう一度言った。
「他にも、『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる』などの記載もある。これはまるで、同族の事を言っている様ではないか?」
「完全に否定はしきれないが、それはもうオカルトの分野だぞ」
「私の存在自体がオカルトと言えばその通りだ」
「まぁ、そうですね。俺の負けです」
「私の勝ちだ」
千賀はふふんと腕組みをした。
まだ褒美とか言って要求して来ない千賀を、俺は可愛くも思った。
何だよ相思相愛かよ、けっ。




