004 きっかけの夕方 ⑵
千賀が突然立ち上がった。
「経口摂取……ではなく、医療器具……で、動物用……しかない」
ぶつぶつと何かを言いながら、実験室の引き出しを開け閉めしている。
「椅子に座って、楽にしてほしい」
千賀が持ってきたのは、注射器本体と、滅菌処理された先端の注射針。動物から血液サンプルを採取することもあるため、用意があったのだろう。
俺は言われた通りに適当な椅子に腰掛けると、「腕を出してくれ」と言われる。
右腕を出すと、千賀は血管を探り始めた。
よくある献血かな、と思いきや、千賀は腕の血管を見て動かなくなった。
「止まってますよ」
声をかけると千賀ははっとして動き始めた。どれだけ腹が減っているのか分からないが、がっつきすぎではないか。先が思いやられる。
千賀はどこからか紐を取り出して、右腕の肘の上を強く縛った。
「ど、動物で手慣れているから安心してほしい」
「目的が目的なんで、安心しきれないです」
「すまん……」
千賀は申し訳なさそうにそう言うが、その視線は俺の盛り上がった血管から離れない。
「早くしてください」
「分かった」
一度目を瞑り、覚悟を決めた千賀は、滅菌袋を少し開けて注射器本体に接続した。
俺の腕をしっかりと掴み、迷うことなく注射針を刺す。
「っ」
しっかりとした痛みの後、自分の熱が抜けていくあの独特な感覚が少し続き、千賀はすっと針を抜き、即座に清潔な綿で傷口を抑えた。
注射器には、なみなみと赤黒い液体が注がれた。
「後は自分で押さえていて」
千賀は紐を外しながら俺にそう言った。
俺は傷口を左手で押さえながら、千賀の様子を観察した。
千賀は目一杯血を吸った注射器から、まずはティッシュを使って針を取り除いた。
そして取り外した時に少し溢れかけた血を指で取り、匂いを嗅ぎ、困った顔をして舐めた。
そして、難しい顔をして項垂れた。
「どうしたんすか? ダメだったんですか?」
俺はわざわざ襲われて採血までされて、これでダメとかなったらどうしてくれようと思ったが、千賀の答えは意外なものだった。
「まずい」
「えっ」
「いや、違う、そうじゃない」
突然一方的に食糧判定された上でまずいと言われるのは失礼じゃないかという考えが首をもたげる。
「とても、おいしいと感じる。これは、良くない」
「別にいんじゃないすか?」
「君は、自分が突然化け物になっても良いのか」
「え、嫌ですけど」
「そういうことだ。はぁ……」
千賀はこの世の苦労を全て背負ったかのような顔で溜息を吐くが、俺は千賀ではないのでよくは分からない。
分からないが、
「千賀先生がそうなったきっかけがあるはずですが、何か心当たりはないんですか?」
「分からない、いつ……いや、思い出せない」
「頑張って思い出してください。そうじゃないとですね」
俺はそこで一旦言葉を切り、
「あんたのようになる被害者が他にも出るかもしれない」
敢えて冷たくそう言い放った。
千賀ははっとして、手元にある注射器を少し傾けてしまい、血が容器を伝う。
千賀は素早く雫を指で掬い取ると、その指を口元に持って行き、舐めた。
俺は見てはいけないものを見た気分になり、顔を背けた。
「早くそれ何とかしてください」
その言葉に、千賀は手の中の注射器を見た。
まるで自分で餌を取ったことのない雛鳥が、地を這う虫をどうやって食べていいか分からないというような、寄る辺ない表情をしている。
「何か容器に移すか、そのまま口つけりゃいいだろうが」
「あ、あぁ。だが」
千賀はちょっとだけシリンジから液体を出し、意を決したように口元に持って行き、ちょっとだけ赤い舌を出して舐めた。
悩ましい表情で一つ舐め、口の中で転がし、満足げな吐息を漏らしてからまた一つ舐め……。
「俺はどんな感情でこれを見てればいいんすかね」
「わ、悪い。その……あの……恥ずかしいな」
千賀の目が泳いでる。
この単なる食事に何の意味があると言うのかとも思うが、俺は小さく溜息を吐くと、千賀に背を向けて腕組みをし、暫く時計の針を眺めていた。
「ご馳走様でした」
千賀は空になった注射器に手を合わせた。
俺は、
「お粗末さまでした」
と返事をする。
千賀はどことなく嬉しそうで、心なしか顔色も良くなっている。
「これからのこと、なんだが」
おずおずと千賀は語り始める。
「まずは、食糧問題。これは、調査林で有害鳥獣駆除、つまりは捕獲を始めようと思う」
「ほぉ、人間じゃなくても良いってか」
「それは分からない。が、やってみる価値はある」
確かに、人間以外で大丈夫ならばそれに越したことはない。俺一人の血でこの男一人を養えるかって言われたら不明な部分もある。
最近試験林ではシカも増えてきており、捕獲の話も持ち上がっていた。決して不自然な話ではない。
「次に、体質の変化について。何がどう変化したのか、確認しておきたい」
「まぁそうだな。で、今確認できているのは?」
「食性の変化、これはその、ご覧の通りだ。感覚の変化、簡単に言えば五感が鋭くなった気がする」
そういえば、千賀は最近暗がりで作業することも多い。光を強く感じている可能性はある。
「体質の変化、髭が生えなくなった。力が強くなった。心拍がなく、体温計では体温が低すぎて測れなかった」
「髭剃らなくて良いとか便利じゃん」
「そういう問題ではない。そして、長くなる犬歯、鋭くなる爪……」
「あー、これは吸血鬼ですね。お薬出しときます」
「……笑い事ではない」
俺が少し茶化してそう言うと、千賀は眉間に皺を寄せて少し黙った。奴はそれだけ真剣なんだろうが、実際にお薬(血)を俺からもらっているため、それ以上は何も言えないのだろう。難儀な性格だ。
「それと、君が言うように、これは後天的な変化だ。誰か他に同様の被害者がいる可能性がある。確か先週、土日と合わせて数日休みを取った記憶はあるが、数日分の記憶がすっかり抜け落ちている。この間に何かあったと考えるのが妥当だろう」
「そういえば何かどっか行くって言われてましたよね。記憶にないけど」
「従って、以降はこの件に関して、食糧の確保、体質の変化の検証、原因の究明の三本の柱を行動指針とするが、異論はあるだろうか」
「ないですね」
千賀は大きく頷き、「はぁー」と溜息を吐きながら深く椅子に腰掛けた。余程緊張していたのだろう。
「君がいてくれて本当に良かった」
「あー、俺はあんたのせいで巻き込まれましたけどね」
「その、悪かった」
千賀は俺が少し大袈裟に言ってやるだけで、しゅんと謝るのが面白くて、俺は少し奴をからかってしまいたくなる。
「はー、早く帰りたいなー」
「す、少し待ってはくれないか! あの、ええと……」
「何ですか?」
「……申し訳ないが、もう少しだけ下さい」
千賀は椅子に座ったまま、深々とこちらに頭を下げた。
「だから、何をですか?」
俺はもう少しだけ意地悪をしたくなって、そう尋ねてしまった。
千賀は目を右へ左へ泳がせて、誰も助け舟を出してくれないと悟ると、意を決して拳を握り締めた。
「あなたの、温かな血液を下さい。数日間、ほぼ何も食べれなかったから、あれだけではとてもじゃないが……足りない」
千賀の頬には少し赤みが差しており、恐らく大変な羞恥の中これを言っていると思われるが、俺は、最後の「足りない」で、目の前にいるのは飢えた化け物だと再確認させられた。
奴は俺の返事を待たずに、カチャカチャと机の中を探り、先ほどよりも大きな注射器を取り出した。
「頼む、山村」
その滑らかで聞こえの良い声に、俺は否と言うことができず、厄介な化け物と取引してしまったという後悔が、今更ながら胸を灼いた。
調教師山村の片鱗が見える。




