003 きっかけの夕方 ⑴
次の日。
「……おはよう。山村」
出勤すると、また暗がりに一人、千賀が座っていた。
俺はもう何も言わずに電気をつけると、奴のひどく悪い顔色が顕になった。
「昨日何時までやってたんすか」
「いや……ああ、あの後すぐに帰った」
嘘だろう。
ゆっくり休んでいない様に見える。
「今日こそ早退したらどうすか」
「そういう訳にはいかない」
奴は即答した。
「仕事熱心なのは結構ですが、先生が倒れたら俺が困るんで」
俺は伝えることだけ伝えると、昨日回収してきたトレイルカメラの画像の確認作業に入った。
作業をしていると、時間が経つのが早い。
ひと段落する頃には、もう昼になっていた。
冷蔵庫に入れておいた弁当を取ろうと、冷蔵庫を開けると、マグロの刺身と生ハムが入っていた。
俺が弁当を温めていると、千賀が冷蔵庫を開けて刺身と生ハムを持って行った。
それが今日の弁当なのか?
「本当に大丈夫すか?」
「ああ、問題ない」
奴はプラ容器を開けると普通に食べ始めた。
遂に弁当を作る元気もなくなった様にしか思えないのだが、奴は何事もないかの様に食べているので俺がおかしいのかとも思えてくる。
しかも、早々に食べ終わったかと思いきや、冷蔵庫から牛乳パックを取り出してグラスに注いで飲み始めた。
職場で1リットルの牛乳パックを開けて飲む人間を初めて見た。
カチ、と時計の針が進む音に振り返ると、既に昼休憩は終わりかけている。
俺は急いで飯をかき込んで、自席と向かい合った。
「お疲れ様っしたー」
挨拶を終えた唇が寂しさを感じる頃、いつも通うのに使っている駅に辿り着いた。
そこでいつもの交通系電子マネーを取り出そうとし……ない。
困った。財布も今日に限って家だ。
半ば疲れで靄がかった頭を動かして思い出せば、確か、社員証と一緒に行動用鞄に入れた記憶がある。
仕方がないが、取りに戻るしかない。
幸い研究所は遅くまで実験する研究者がいるため、かなり夜遅くまで開いている。
「困ったな……」
そこで思い出したのが、今日の千賀とのやりとりだ。
恐らく奴は、今日も研究室にいるのだろう。
他に帰宅する手段もないため、俺は開いているだろう研究室に戻った。
「開いてない?」
なぜか研究室は施錠されていた。
ここで初めて俺は焦りを感じた。
今日帰れなかったらどうするか。
飯は食べられないし、歩いて帰るには何時間かかるか分からない。
そんな不安を胸に、一縷の望みに賭けて、奴がいつも使っている実験室へと向かった。
実験室は明かりがついていないが、この前の朝も千賀は照明をつけずに何かやっていたことを思い出し、意を決してドアノブに手をかけると、普通に回った。
まだ施錠忘れである可能性が頭をよぎったが、
「山村か」
と真っ暗な空間から声をかけられたので、その可能性はなくなった。
「扉を、閉めてくれ。鍵も」
声の言うとおりに扉をしっかり閉めた後、内側から鍵までかけた。
「千賀先生すか?」
「あ、ああ」
タン、と軽く何かが床を打つ音がする。
これで、またこの状況が夢である可能性が低くなった。
「照明つけますよ」
千賀の許可を待たずに照明をつけると、ぱっと見たところ誰も見えない。
背の高い実験机や機械を横目に進むと、部屋の一番奥に千賀は蹲っていた。
いや、両膝をついてこちらに首を垂れている。
なぜ、と見れば両手に何かが掛けられている。見たところ、狩猟用の動物の保定器具のようだ。
ポタ、とまた液体が床を叩く。
白衣を着た肩は激しく喘いでいる。
「千賀先生にそんなご趣味が」「違う!」
仕事場で欲求不満なのかと思えば、即否定される。
まぁ、いつもの奴からそんな雰囲気は感じないからそうなのだろう。
どうするべきか考えていると、
「殺して、くれ」
千賀が声を絞り出した。
「は? 嫌ですが」
俺は殺人罪で捕まる気は毛頭無かったので、即断った。
「頼む、俺が、まだ、人間である、内に」
千賀が顔を上げた。
相当やつれている。髪は乱れ、目はこちらを離さず、息は荒く、歯を食いしばっている。口の端から涎が落ちて、床を叩く。床は既に小さな水溜りができていた。汚い。
俺は屈んで奴に目線を合わせて、
「ちゃんと家で休んでください」
と言ってやった。
そして拘束を解こうと後ろに目をやった瞬間、「ブチリ」と音がして、床に叩きつけられ、視界が反転した。
遅れてやってくる頭と背の痛みに顔を顰めていると、天井一色だった視界に千賀の顔が現れる。同時にあの果物のような甘い香りがした。
「フゥーッ! フゥーッ!」
苦しげに歪めた唇からは、長い犬歯が覗く。ここで俺ははじめて、奴は、千賀は、人間でない何かになったのかと気づいた。
悲しげな目は何とか理性の色が見えるが、少しずつそれも失われていくように感じる。
逃げようとして動かそうとした右手は、すかさず膝で押さえつけられた。
ギィーと嫌な音がしたと思えば、手を縛っていた金属製の保定用の足錠を力任せに開錠していた。嘘だろ、あれ開くのに両手でギリギリなほど力がいるんだぞ? 後ろ手に縛っていた状態であんな風に解けるものではない。
左手は動かす前に、冷たい手で押さえつけられた。
足はばたつかせてもつるりとした床では掴みどころがない。
このままでは襲われる。
「聞いてくれ。腹が、減ったんだ」
千賀は俺を押さえつけたまま、語り出した。
「レバーは、匂いは良いがダメだった。他もダメだ。はぁ……牛乳は足しにはなったが、まだ足りない」
「私は、どうしてしまったのか。人から、君から、いい匂いがする」
「恐らく、血液だ」
「気味が悪いだろう。怒ってくれていい、恨んでもいい。だが、頼む……許してくれ」
そう言いつつ、千賀は俺の冷や汗をざらついた舌で遠慮がちに舐めとった。
このままでは噛みつかれる、と生命の危機を感じる。だが、身動きは取れず、動くのは口だけだ。
いつになく切実な千賀の様子に絆されるほど、俺は優しくはない。
「やめてください。気持ち悪い」
俺は努めて冷静にそう言った。
そう口に出したことにより、少しずつ頭が覚めてきた。
「このまま噛みつくつもりですか。千賀先生、いつも言ってますよね。野生動物や吸血動物による咬傷は感染症の媒介の原因となるって」
千賀の動きがピタリと止まった。
「それに、『血液は汚い』んですよね。先生も研究者だったら、衛生環境はちゃんと整えてください」
千賀が身を引いて拘束が緩まった。俺はすかさず千賀の下から抜け出した。
「待ってくれ」
しかし、再び千賀に腕を掴まれた。
「人を襲いたくない」
「現在進行形で襲ってますが?」
「ぐっ……」
千賀がふざけたことを言うのでド正論で黙らせた。だが、奴の言い分にも一理ある。外に出て見境なく人を襲った時、職を失うのは千賀と研究助手である自分だ。
それは困る。
それに、これは、チャンスではないか?
「千賀先生、取引をしましょう」
「何が望みだ?」
千賀はまるで待てをされた犬だ。
底光りするような目でこちらの一挙一投足を見逃さまいとしている。
「俺の就活。◯◯社かどこかの博物館」
「分かった、できる限りのことはしよう」
千賀は俺を握る手に力を入れた。
俺は「まだあるぞ」とその腕をもう一方の手で掴んだ。
「俺以外から血をもらおうとするな」
そうすれば、
俺が千賀を止めることができるから。
「……善処する」
「善処じゃ困る」
「約束、する」
「それでよし」
いつもとは打って変わって、辿々しい返事に、まるでこれじゃ、俺が千賀の飼い主みたいだなと思いながら笑ってしまう。
千賀は俺がなぜ笑い始めたのか分からず、おろおろしている。こうして見ると本当に犬のようだ。




