032 ふざいと餌者
体調悪そうな山村は文字数が減って書きやすいね。
千賀はある日を境に、ぱったりと来なくなった。
来られない事情があるのだろう。
あるいは、本当に日本から旅立ったのか。
それでも、俺は入院していた時からずっと、夜寝る時は窓の鍵を開けている。
いつでも、千賀が来られるように。
とうとう、会田からネズミの病理検査の結果が返ってきた。
やはり多血症による体調不良だそうだ。
会田に言わせると、これは実に奇妙なことらしい。
「体の方が、血を抜かれることが前提かのように増血し続けているんだ。しかも、別に鉄分を多く摂らせていた訳でもなさそうで、さっぱり分からない。君、何でもいいからネズミについて知ってることを吐いてよ。これって、もしかすると医学が一歩進むかもしれないんだよ?」
「そう言われても、知らないものは知りません」
「そっかー……残念! また千賀の手がかりが見つかったら僕に電話してね、じゃ!」
相変わらず会田は切り替えが早かった。
それと、千賀の言った通り、本当に能動的に千賀を探し始めているようだ。
決して奴は世間的には失踪している訳ではないのに、である。
千賀は会田を頼れと言うから、もし言い逃れのできない場面になったら会田に説明をするしかなくなるかもしれない。
それは誰がそうでも同じなのだが、相手が会田となると底知れない不安があるのも事実だ。
ただ、会田が病理の専門家であり、俺がどうにかなった時に相談できる唯一の医療従事者であることもまた事実だ。
俺は行き帰りの電車で、一度ぼぅっとして乗り過ごしてからは席に座らなくなった。
駅のトイレで鏡を見ると、頬に朱が差している。
最近階段もしんどいので、エスカレーターを使ってホームに出た。
最近、頭痛がひどい。
「大丈夫ですか?」
知らない人が俺に声をかけた。
俺はふらふらと黄色の点字ブロックを超して、電車の線路を眺めていた。
「……ッ! ありがとうございます」
俺はその人に付き添ってもらいながら、ホームの椅子に座り込んだ。
「駅員さん呼びましょうか?」
「いや、大丈夫です。少し休みます」
知らない人はちらちらと俺を見ながらも、すぐ来た特急電車に乗って行った。
そろそろ……限界なのか。
千賀がいなくなっても、日常は進んでいく。
俺は奴なしでも生きる方法を探すしかない。
[君に会いたい]
千賀の字は、そこだけ少し乱れていた。
本当は書く気がなかったのかもしれない。
体調的な問題で仕方ないことかもしれないが、千賀離れができていないのは、俺の方なのかもしれないと自嘲した。
そもそも、千賀は俺を依存させるような体質に変えておいて放置するのがおかしい。
この体調不良は十中八九千賀のせいだ。
そう考えると、ふつふつと怒りが湧いて来た。
あまりにも、千賀が無責任じゃないか。
確かに俺は言ったさ、転職しても良いってな。
ただな、後続に引き継ぎもせずに自分しか動かせないシステムを放置してトンズラとは、俺のことを何だと思ってんだ。
「大事な人」じゃないのか!
それよりも、今晩どうしようか。
俺は電車に揺られながら考えた。
もう、夕飯を作る気もない。
買い物に行く元気もない。
たまには、どこかで食べに行くのもいいかもしれないな。
気がつくと、俺は以前千賀と飯を食べた駅で降りていた。
ここの駅ビルの八階にはちょっといい焼肉店がある。
確かに俺には今、千賀のカードというでかい財布があるが、今はもっと胃に優しいものが食べたい。
確か、駅のすぐ近くにうどん店があったと思って信号を渡っていた時、
「あっ」
「あっ」
甘い腐りかけの匂いがして、どちらともなく声を上げた。
以前、千賀を同族と呼んだあの男がいた。
「僕は何がいいかな? ミルク?」
男は俺を路地に連れ込み、外れの店に入ってから更に奥の店に連れて来た。
一人で帰れる気がしない。
しかも、高級なバーのような雰囲気で、俺は男と二人きりの個室に通された。
「俺はもう成人してる」
俺はそれよりも閉められたドアの方が気になった。ここはどんな店なんだよ。
「オレにとっては皆子どもだよ」
「じゃあおいくつなんですか」
「100超えてから数えてないね」
俺の憮然とした態度も意に介さず、男は飄々としている。
「なんで俺をこの店に連れて来たんですか」
「そりゃ、君が辛そうだったからだよ」
まるで人助けのためとでも言うように、男は嘯いた。
俺が黙っていると、男は話を続けた。
「あの彼が、とうとう君の許しを得たってわけだ。うーん、良かった良かった。ただね、許せないのは」
男は俺に手を伸ばして来たので、俺はハエを振り払うように手を叩き落とした。
「えっ」
男は確かにかなり顔がいいし、服も何も決まっている。女性に手を伸ばしてこんなことをされたことはなかったのだろうが、俺はセクハラに厳しい男である。
男は俺に叩かれた手を摩りながら続けた。
「君さ、しばらく血を吸われてないだろ。しかも、大分しつこく吸ってたのに、突然ポイとされたように見える」
俺は何も言えなかった。
男は俺の沈黙を肯定と受け取ったようだ。
「君さ、今すっごく食べ頃なんだよね」
俺は、今更ながら男も捕食者であったことを思い出した。
「失礼します」
扉が開き、給仕の女性が飲み物を持って来た。
俺の前に置かれたのは、牛乳だった。
「別に変なもの入ってないから大丈夫だよ」
本当にミルクを寄越す奴があるかと思いながらも口をつけると、かなり美味しい搾りたての濃厚な牛乳で、俺はつい一気に飲んでしまった。
「おいしかった? 良かったね」
男は微笑みながら自分のグラスをマドラーでかき混ぜている。
ふわりと漂ってきた匂いから、それは血なのだろう。
俺は危機感を覚えながらも、千賀のことを思い出すと、腹が満たされればOKなところがあったので、この男は俺を食糧として連れて来た訳ではないのだろうと考えを改めた。
「君、名前は?」
「山村」
「オレはそうだな、流星ってのは源氏名で、本名は星かな。どっちでも良いよ」
やはり水商売の男だったか。
源氏名って普通、本名と被らないものを選ぶはずなのだが、そんなあだ名みたいな付け方でこの男はいいのか。
「山村くん。今からオレは、君の血を吸う」
俺は身を強張らせた。
会ったばかりの男に、襲われるのは御免被る。
ここは、俺と千賀だけの場所なんだ。
星はそんな俺の様子を見て、
「別に嫌だったら強制しないよ。ただ、君が辛そうだったから、何とかしてあげたいって話」
と弁明した。
「その前に、俺はいまどんな状態なのか、エモノとは何なのか、教えてください」
「そっか、彼は君に何も説明しなかったんだね。というか、知らなかったのかな」
「これも同族のつとめかな?」と言いながらも、星は俺にエモノが何たるかを説明し始めた。
「エモノは、言い方悪いけど、オレらの餌だね。餌の者、で餌者。オレらが噛みつくとさ、人間は少しずつ餌として育っていくのよ。オレらってさ、なまじ長生きだし、人肌恋しいからさ、そうやってパートナー作って血をもらう方が何かと都合が良いんだよね」
「は、はぁ」
「だから普通は、人のパートナーに手を出そうって不届ものは殺されても仕方ないんだけどさ、君の彼は無責任にも君を置いてってしまったんだろ? だから、近所のお兄さんが臨時で何とかしてあげようってわけ」
星は本当に善意で俺の血を吸おうとしているらしい。
きっと、俺の身体はそれを求めている。
だが、俺の心はそれはノーサンキューだ。
だが、身体あっての心でもある。
俺は身体と心、どっちを優先するかで悩んだ。
「オレは面倒だからパートナーはいないんだけどさ、たまにはこう、食べ頃の血ってのも味わってみたいかなって思うんだよね」
星は俺の肩に腕をかけ、「うーん、あったかいね」と千賀のように温かさを堪能している。
俺は嫌だと思いつつも、それを口にできない。
「千賀……」
自分でも驚くほどか細い縋るような声が出た。
星はその声に、
「やめてくれよ、唆られるじゃないか」
と更に拘束を強めていく。
嫌々と身を捩って抵抗するも、星にとってはそれが食欲を唆られるスパイスになっているようで、どんどん俺を絡め取っていく。
トントントンと、ノックの音がしてからすぐに扉が開いた。
「ビンゴ」
まず、ビンゴの前にリーチをしなさいよ。




