019 あたたかさとお願い
一応、ここから「起承転結」の「承」になりますね。
だからどうということはない。
「おはよう山村」
「おはよっす、千賀先生」
千賀は研究室に入ってきた俺に挨拶をする。
そんな普通の日常が戻ってきたかに思えた。
千賀は海堂女史がおらず、誰も見ていないことを確認すると、「来てくれ」と俺を呼んだ。
俺が「はいはい」と右手を突き出すと、千賀は長い指で肌のハリを調べるかのように、俺の手を撫で回している。
この変態的行為は、主に千賀の精神安定のために定期的に行われている。
俺の読んでいる本によれば、恐らくは捕らえた獲物の健康や生命力の確認ではないかと書かれていた。
つまり、食糧危機の時に冷蔵庫の中の肉や野菜を見て安心してるって訳だ。
俺は奴の食糧かとツッコミを入れたくなるが、事実そうだから否定のしようもない。
「いつも思うんですが、これ楽しいっすか」
「うぅむ、楽しい、というか……嬉しいな。ほっとする。君の落ち着いた拍動が聞こえる」
「キモ……」
千賀はショックを受けた顔をしたが、これは事実なので甘んじて受け止めてほしい。
その間も手は止まることなく俺をにぎにぎし続けている。
千賀はあの晩から、少しだけ自分の欲求に素直になった。
俺がそれを聞けば、頑張って説明しようとする。
どうしたらこんなおっさんになるまで、自分の気持ちに無頓着でいられたのか少し気になる。
千賀がパッと手を離して、「席に戻れ」と言う。
俺は、
「何か俺に言うことはないんすか?」
と聞けば、「ありがとう」という消え入りそうな声の後に海堂女史の挨拶が聞こえた。
「おはよう、海堂さん」
「おはようっす、あちいっすね」
海堂女史は今日は既に半袖になっている。かく言う俺も半袖だ。
腕が握りやすくて肌面積が多いから千賀には好評である。奴は絶対に口には出さないが。喜べ千賀、これから半年は夏だ。
罠にはシカがかかる気配はあるも、まだ捕まっていない。
千賀GWシカ襲撃事件によると、記憶は定かではないがシカをここいらで襲って血を落としたと言うから、シカは警戒しているのかもしれない。
適当に餌を撒き、水を足して、カメラの向きをチェックして、俺は研究室に帰った。
ひとつ気がかりなのが、4番の罠場のカメラが何かによって画角が変えられていたことだ。
俺はイノシシじゃないかとも思うが、クマである可能性も十分にある。
この山だって、決して安全な場所ではない。
俺は足をよじ登ってくるマダニを弾き飛ばしながらそう思った。
「ネズミの体重測っておいてくれるか?」
千賀がゴールデンウィーク前から飼っていたネズミは無事である。何ならいつも実験室でゴソゴソ、ガジガジしている。
俺はガッとネズミを掴むと、小さな洗濯ネットに入れて体重計に乗せた。
何の対照実験をしているかは知らないが、明らかに片方のケースのネズミの体重が増加しており、少し動きが鈍いように見える。
「これ、何の実験中なんすか?」
「あっ、それはな、最近冬山では塩カルを撒くだろう? それで動物の体調が変わるのか、実験室単位で調べたくてな」
「へぇー」
嘘っぽいが嘘とも否定しきれない微妙なラインである。千賀は何かを隠しているかもしれないし、そうでないかもしれない。まぁ、突くのも酷か。
「記録終わりましたよ」
「では、山村。今日も良いか?」
千賀の手にはシリンジと、針と、紐。
「嫌と言ったら?」
「本当に嫌ならば、君はここには来ない」
千賀は妙に自信ありげにそんなことを言うので、俺は意地悪をしたくなった。
「俺、千賀先生の助手なんで、普通に仕事としてここにいるんすよね」
しかし、無情にもここで終業を知らせるチャイムが鳴り響いた。
これからは、夜の時間だ。
「もう仕事は終わったぞ」
千賀はしたり顔でそんなことを言う。
「じゃ帰りますねー」
「ま! 待ってくれ!」
俺が鍵のかかった扉を無意味に開けるふりをすると、本気で焦ったような声が聞こえてきた。
「嘘ですよ。これからあんたの教授たちに会いに行きますからね」
俺はひとしきり千賀をからかって満足したので、いつもの椅子に腰掛けて大人しく腕を縛られた。
今日のシリンジも300ml、少し多めである。
今日は、『親』と会うかもしれない。
準備を万端にしておきたいのだろう。
あの時から千賀は少しだけ、俺の血を飲む量が減った。
別の欲求を飲む量で補填していた部分があったのかと予想している。
千賀に聞いてみても、奴は自分のこととなると途端に要領が悪くなるのではっきりしない。
「いくぞ」
この血を抜かれる感覚だけは、毎度のことながら慣れない。人としてあまり慣れてはいけない部類の感覚でもあるから、俺は正常なのだろう。
シリンジから針を外し、俺の腕から紐を外してガーゼを渡し、千賀は床を見ている。
「山村。申し訳ないんだが、その……ぉ」
千賀は俺に視線を合わせようとしない。
俺は千賀が言葉をまとめるまで待った。
「山村。またこの前と同じことを頼んでいいか?」
「却下。抽象的すぎる。テイク2」
「えっ」
「テイク2」
俺にダメ出しされて、千賀は一生懸命考えている。
「山村、私の欲に付き合ってくれ」
「却下。キモすぎる。テイク3」
「……山村、しばし君を貸して欲しい」
「却下。俺は物じゃない。テイク4」
「……俺には君が必要なんだ」
「まぁ、どうあがいてもキモくなるんで、いいということにします」
俺はかなり乱暴に千賀の膝に乗っかったが、千賀はびくともしない。体幹が強すぎる。ちなみに椅子は動いた。
自動的に空いている手が身体に触れてきた。やはり体温を感じない。
多分俺たちが、明るく風通しの良い部屋で、温かな料理を人と話しながら食べるのを好むように、彼らは、人の体温を感じながら食事をしたいのだろう。
だからと言って、俺は絶対にこいつに噛みつかれたくはないし、こいつだって本能的にはそれをしたくとも、人間としての理性はそれを絶対に許さないはずだ。
今のままでいい、今のままで、少しずつ……。
ようやく食事が終わった千賀は、「ありがとう」と俺の耳元で囁いて、俺を強制的に立たせた。
そして、自分は水道に向かい、歯を磨き始めた。
俺も水道に向かうと、流し台にはバケツの中に入ったシカの頭骨があった。
この前、千賀に頼んだシカの頭骨だったが、今はポリ◯ントに漬けられている。
相変わらずの手際のよさである。
「千賀センセ、どうしてシカじゃダメだったんすか?」
「理由はいくつかある。まずは、鮮度が保たなかった。やはり一日程度が限界らしい。肉も、内臓も、骨髄もな。また、こう、な。君は肉と米と魚無しに生きていけるか?」
「無理っす」
「私もベジタリアンにはなれなかった様だ」
そう言う千賀の犬歯は人間とそう変わらない長さになっている。不思議だ……。
「さて、準備が出来たら出発しよう」
「その前にですね、もし、相手があんたと同じ化け物だった時、どうしますか?」
俺はまず話さなければならないことを突きつけた。
「……メッセージアプリで教えてくれ」
千賀は意外にも文明の利器を使えと言う。
だが、
「あんたの連絡先知らないんですが」
「そ、そうだったか」
俺は千賀と連絡先を交換した。
「変なことに使わないでくださいよ」
「使う訳……」
「でも、困ったらいつでも連絡してくださいね」
俺はそう言い残して、研究室に荷物を取りに行った。
もし感想とか、こんな話読んでみたいとかあれば、何かコメントいただければできる限りで対応しますからね。




