018 やくそく
千賀に会ったら一言文句言ってやる。
そんな風に思っていたのに、布団に入って寝てまた起きたらころっと忘れてしまっていた。
「おはようございーっす」
「おはよう」
俺はいつも通りに千賀に挨拶したが、千賀は目も合わせない。
そういえば、俺は千賀に拒絶されていたなと久々に思い出した。
それでも、仕事とあらば話すしかない。
「罠はどうしますか?」
「……開けたいか?」
千賀は質問で返してきた。
「いや、俺が判断することじゃないんで。シカは増えてるんで捕獲できるだけやっとく方がいんじゃないすかね」
「そうしよう。頼んだぞ」
千賀はいつも以上に素っ気ない。
いや、敢えて素っ気なくしているようにも感じる。
だが、確証は持てない。
千賀が来ないので仕方なく一人で罠の準備をした。餌はとっくになくなっており、罠も上を踏み荒らされている。この調子ではまたすぐ捕まるだろう。
ついでにSDカードも回収しておいた。
千賀は何も言わない。
返事も端的だ。
やはり、俺のことなんかどうでもいいのか?
そう思って千賀を見ると、目が合い、すぐに逸らされた。
しばらくして、スマホの反射を使って千賀の様子を伺うと、仕事の合間にこちらをちらちらと眺めている。
以前、千賀が腕を握ってきた時と同じような切実さを感じないでもない。
俺は意を決して、千賀に近づいた。
千賀は逃げた。
「なんで逃げるんすか」
千賀は答えない。
ただその目だけが、何かを訴えている。
俺は諦めて、千賀が何かを言い出すのを待った。
「山村、実験室には来るな」
案の定、帰り際に千賀はそう言って部屋を出て行った。ふわりとこの前よりも強く甘い匂いがする。
「山村さん」
海堂女史が心配そうに俺に声をかける。
俺の覚悟は既に決まっている。
「行ってきます」
千賀がどうなろうとも、俺は、奴を見捨てはしない。
真っ暗な実験室の扉は、確かに俺を拒絶していた。
だが、そんなこと構うものか。
俺が、俺のために、千賀を救ってみせる。
扉はやはり、施錠されていなかった。
俺は躊躇いなく電気をつける。
千賀はいつもの隅っこで蹲っていた。
「来るな」
「行きます」
「来るならそこのナイフを持て」
机の上にこの前解体で使ったナイフが置いてある。ナイフには点々と血がこびりついていた。
「汚いし、必要ないです。だって、千賀先生はそんな人じゃないから」
俺はずんずんと進む。
「来るな! これ以上来られると、私は……」
「何ですか? 言葉に出して言わないと伝わらないですよ」
俺の歩みは止まらない。
「私は、君との約束を破ったんだ。もう千賀は死んだ。君の前にいるのは」
「じゃあ何ですか。ここで、必死に俺を襲わないようにしている化け物は、人間であろうとするあなたは、一体何だって言うんですか!」
千賀は死んだ?
何ふざけたこと吐かしやがる。
「全く……俺がどんな思いでここにいるか。あんたに俺の何が分かるってんですかね!」
頭に来た俺は、来た道を戻ってナイフを手に取り、千賀を失いたくない覚悟を込めてリストカットをした。
その瞬間、空気が変わった。
千賀の顔からは最早、表情が抜け落ちている。
完全に瞳孔が開き切った目で俺の手首の一点だけを見つめている。今すぐに襲いかかってきてもおかしくないのだが、全く動く気配が見えない。
「あんたが何になったのか、俺は知らない。ただ、前言ってたよな。多分あんたは、血を舐めれば俺の感情も分かる」
俺は動かない千賀の目の前に、血が溢れて止まらない傷口を突き出した。
それでも千賀は動かない。
持ち前の鋼の意志を持って、自制している。
だが身体は正直なもので、赤い唇を割って白い牙が覗き、口の端からは透明な涎が静かに流れ落ちていく。
「だ、め、だ」
千賀はひどく喋りにくそうに言葉を発した。
いざ噛みつく段階に至ると、口を自由に動かすのも難しくなるのかもしれない。
「俺が舐めてもいいと言えば?」
目を伏せて首を振る。
俺はため息を吐いて、
「じゃあ、俺が一から丁寧に教えてやるよ」
そう言った。
「まず、右手で俺の腕を掴め」
震える右手が伸ばされて、俺の腕に絡みついた。
以前よりももっと冷たい。
「よし。温かいか? 俺は生きているから大丈夫だ。大きく息を吸って、吐いて。落ち着いたか?」
千賀は今にも泣きそうな表情をしているが、俺はこの哀れな死人がもう泣けないことを知っている。
「そしたら、傷口が気になるだろうが、待て。唾液が入ると感染症の恐れがある」
千賀は真剣な表情で俺の目を見て、俺の話を聞いている。
悪くない感じだ。
「ゆっくり、俺の肘に顔を近づけろ。ゆっくりだ。大丈夫、俺は無事だ。いいぞ」
落ち着いて、一歩ずつならば、大丈夫。
「そしたら舌を少しだけ出して、血を舐めてみろ。牙は当てるなよ?」
千賀はぶるぶると震えながらも、ちょこっとだけ出した舌で、俺の流れる血を少しずつ、少しずつ舐め取っていった。
「ストップ」
傷口に舌が届きそうになった段階で、俺は千賀を止め、腕を引っ込めた。
縋るような手が残されたのを見て、
「安心しろ、俺は無事だ」
俺は、千賀に抱きついた。
千賀の身体は相変わらず冷たい。だが、少しでも温められるのなら、それでよかった。
千賀の身体は緊張でガチガチになっていたのが、少しずつ緩んで両腕が背中に回った。
千賀は以前、俺の腕をしばらく掴んでいたことがあった。
きっともう鼓動のない身体が、温かな命に羨望を抱いているのだろう。
俺は、少しでもこの哀れな怪物の慰めになればいいと、しばらく身体を預けていた。
「へくしゅん!」
しかし生理現象は免れない。
少し身体が冷えたのと、千賀が埃っぽかったのもあり、くしゃみが止められなかった。
千賀は「もう十分だ」と、言葉に反して名残惜しそうにゆっくりと腕を解いていった。
「悪かった」
「違うだろ」
「あ、ありが、とう……?」
「よくできました」
千賀の謝罪なんて受け取りたくもない。
俺は、俺のためにあんたを救ってやりたいだけなんだからさ。
「で、何があったか白状するといい」
だが、巻き込んだ俺への説明責任は果たしてくれ。
千賀は少しずつ話し始めた。
※
「で? 要約すると、俺を殺しそうだったからシカに逃げたけど、やっぱりシカの血肉だけじゃ足りなくなって、化け物死すべしと色々と自殺方法試したけどうまくいかなくて、飛び降りで飛び降りた先の新鮮なご遺体から血をもらったり、夜な夜なシカ襲ったりしてたって訳?」
千賀は最大限視線を逸らしたまま頷いた。
「バッッッッッカじゃねーー?」
「そっ、おまっ、ちっ」
「逃げるな卑怯者。あんたがやったのはなぁ、約束した俺への裏切りだ」
俺はわなわなと震える千賀の冷たい腕を掴んで、少しずつ力を入れていく。
「別にご遺体から血をもらったのは許す。緊急事態だからな。シカを襲ったのもいい。人よりはマシだ。問題は」
俺は千賀の腕をへし折らんばかりの力で握るが、びくともしない。
「問題は、あんたが自殺で逃げようとしたことだ」
「に、逃げようだなんて」
「結果的にそうなるだろうがよぉ!」
「は、はいっ!」
「あんたはいつも自覚が足りない。怪物である自覚もそうだし、自分の身体の欲求への自覚もそうだ。中途半端なんだよ、いつもいつも」
それが、俺が千賀を見捨てられない理由だということは言ってやらない。
「そのいい頭で考えてもみろ。高速回復する化け物だぞ? 普通の方法で死ねる訳がないだろうが。そこまで人間かぶれなのかぁ?」
「え、いや、そ、それは君がおかしいだろ」
「あ?」
「だって、俺はまだ怪物になりたてで」
「巣立ち雛だから食べないで下さいってか?」
むしろ、巣立ち雛こそ外敵によく狙われるのだが。
千賀は俺の手を簡単に振り払って、手についた血をちろちろと舐めている。まるで猫の毛繕いのようだ。
「簡単に死のうとするな。いや、簡単に死ねないのは分かってんだが……ほら、そのな、あれだ。俺だってあんたを心配してんだよ」
「えっ」
千賀は本気で驚いたような顔をした。
マジで? 本気で言ってる?
「俺、あんた、大事。オーケー?」
「何故だ、理解し難い。化け物なんて放っとく方が賢明じゃないか」
あー、これダメだ。
「よーし分かった。採血しろ。今すぐにだ」
「えっ?」
「ほら、シリンジ、針、紐!」
千賀は俺の言葉を理解しないまま、とりあえず採血の準備を始めている。
相変わらず手際だけはいい。
俺も椅子にどっかり座って腕を差し出した。
「ほら、早く」
千賀は戸惑いながらも俺の青痣のある腕に針を刺した。
千賀に聞かれる前に、俺は、
「もちろん痛い。だが、これは俺が選んだ痛みだ」
そう言ってやったが、どれだけ伝わっているかは分からない。本当に、外面だけの男だな。
ちなみに刺されたのは300mlの注射器だった。欲望に忠実なのは悪くない。
いつもの通り小さなガーゼを渡され、千賀はいそいそと針を外して、困ったような顔でこちらを見た。
どうして、そう自分を無視してしまえる。
俺は「座るぞ」と千賀の膝に腰掛けた。
「えっ」
千賀は固まっている。
「座り心地は最悪だな」
俺は千賀の腕をシートベルトのように回した。
冷たすぎる。逆カイロかよ。
「ほら、食事の時間だろ」
千賀はひどく戸惑いながらも、仕方なく俺の肩越しに血を舐め始めた。
「欲しがることは、悪じゃない」
俺は千賀の口が塞がれているのをいいことに、言葉を一つずつ紡いでいく。
「あんたが生きることも、悪じゃない」
「もっと自分のやりたいことを口に出せ」
「俺が肯定する」
「俺は、自分の意思でここにいる」
「それを否定するのは、俺を否定したのと同じだ」
「まずは自分を大切にしろ。いいな?」
「……分からない」
千賀は蚊の鳴くような声で呟いた。
そう言うと思ったよこの野郎。
「あんた言ってたよな。血と、噛みつきと、温かさを求めてるって。今の状態は不快か?」
千賀はふるふると首を振る。
「口があるんだからちゃんと言葉にしろ」
「とても、とても落ち着く。心がぽかぽかする。歯が疼いてむずむずするが」
「自制しろ。それができると信頼してやってんだ」
「……はい」
千賀は俺をぎゅっと抱きしめた。
俺はしばらく血の通った抱き枕の役目を全うした。
千賀が俺を離さない。
既に奴の食事は終わり、空になったシリンジは机の上に置かれ、もう一方の腕も俺を捕まえている。
「あのー、俺もう帰りたいんすがー」
拘束が強まった。
「これからの話がしたい」
千賀の息が血生臭い。
今日日肉屋でもこんな匂いはしないぞ。
「息臭いっす。ちゃんとブレスケアしてください」
千賀が狼狽えて拘束が緩んだ隙に俺は腕を振り払って立ち上がった。
千賀も俺につられて立ち上がり、ふらふらと水道まで行き口を濯ぎ始めた。素直かよ。
俺が先に座って待っていると、千賀が自分の椅子をこちらち寄せてから座ろうとしたので、
「近い近い」
押し除けようと伸ばした両腕をがしりと掴まれた。千賀に離す気はなさそうだ。
これが妥協点か、と諦めて俺は奴の話を聞くこととした。
「先日、私のD論の共著になっている教授達から連絡が返ってきた。今週の金曜日、一緒に酒を飲むこととなっている」
「酒、飲めるんすか」
「純エタノールでも死ななかったので大丈夫だろう」
「そういう問題じゃないんですが」
千賀は平気な顔で事も無げにそんなことを言う。
「……二人の内、どちらかが私の『親』かも知れない」
千賀はいつになく真剣な顔をしている。
「それは」
「だから、君に同行願いたいんだ。鼻の良い君にな。それに、彼等が化け物と決まった訳ではない。古くからの伝も多い教授達だ。君の就職活動にも繋がるだろう」
千賀はしっかりとそんなことまで考えていたらしい。
俺にとっては、願ったり叶ったりだ。
だが、どうしてこんなことを考える人間が、すぐ自殺なんてしようとするのか、不思議になった。
「来てくれるか?」
「もちろん」
「ありがとう、頼んだぞ」
ああ、分かった。
千賀は不安だったんだ。
一人で化け物になって、それでも人間を捨てられなくて、自分の欲求を隠しておけなくなって、手近な俺に縋って。
あんたが望まなくても、俺があんたを人間と呼んでやるよ。




