017 やすみと実家
家へ帰っても、気持ちのモヤモヤは収まるどころか増えるばかりであった。
千賀はいつも狡い。
澄ました顔をして、さも当然のことのように正論をぶつけてくる。
「化け物の癖に」
化け物の癖に、千賀は。
自分の欲求ばかりに無頓着で、それでいて欲を持て余しては俺に遠慮がちにぶつけていた。
手を握ってきたり、採血したものを何か目のやり場に困るように舐めたり、血管眺めたり、ダニを潰したり、渡したティッシュ食ったり……。
「う〜〜」
俺はソファでゴロンと転がった。
素直に俺に依存すればいいのに。
自分は化け物ですって言いながら、シカに祈るし、普通に振る舞おうとするし、痛々しいんだよ。
普段はあんなにお高くとまってるのに、俺の前では情けない顔して、あたふたと慌てて、しどろもどろになって、困っている奴に、俺は、俺は……。
「あいつ、何なんだよ」
俺があいつを飼っていると思っていた。
だが、あいつは俺がいなくてもいいと、俺の手を振り払った。
あいつが先に、俺を拒絶した。
余裕ぶりやがって。
あいつには俺が必要な癖に。
だから、あいつが一人で困ればいいんだ。
俺は悪くない。
「あーあ、シカなんて獲れなきゃよかった」
そう言いながらやったシカのしゃぶしゃぶは美味し過ぎて、俺は悔しいながらも意見を翻さざるを得なかった。シカ、美味しいです!
今頃奴もシカを味わってるのかな、と思ったが、別に奴のことを考える必要はない。
奴は俺じゃなくてシカを選んだのだから。
次の日、出勤すると机の上に紙が置いてあった。
『山村 罠は全て閉めておいた 千賀』
「それだけかよ!」
むしゃくしゃしたが、あまりに達筆なので破るのも惜しくなってそのまま机に貼っておいた。
しかし、こんなんで止まる俺ではない。一人で山に入り、シカの餌を撒き、塩水の減り具合を確認し、一人で帰ってきた。
そして、その次の日は雨が降ってきた。
外にも出れず、仕方なく溜まっていた自動撮影カメラの動画の内容を確認し続けた。
ゴールデンウィーク初日。
俺は荷物をまとめて家の鍵を閉めた。
これから、実家へと向かう。
とはいえ実家はそう遠くはない。
五駅ほど離れた場所、駅から歩いてそう遠くない閑静な住宅街に位置している。
「ただいま」
「あら! よーちゃんおかえり!」
いつもの通り母が出迎えてくれたが、振り返った母の背中は少し小さく見えた。
俺は何も言わずにすぐ自分の部屋へと引き篭もる。
そちらの方が面倒がないからだ。
「ねえよーちゃん、今日はよーちゃんの好きなものを作っておいたのよ」
母は、大量のお稲荷さんと、いなり餅を用意して俺を待っていた。
母は今機嫌がいいらしい。
「ありがとう、母さん」
母はニコニコしながら俺と一緒にお稲荷さんを摘み始めた。
母が機嫌がいい時は楽だ。
「よーちゃんは、ちゃんとしたお仕事できてる?」
あっ、ヤバい。
「あたしはね、いつもよーちゃんのことを心配しているの」
「今聞く気ないから」
そう言って俺は部屋に引き篭もり、引き戸の内側に棒を差し込んで外から開けられないようにした。
母はまだ外でヒステリックに何かを叫んでいる。
「近所迷惑だから! あんただってそんなこと言いたい訳じゃないんだろ!」
俺は耐えかねてまた母に向かってそう言ってしまった。
母は途端に静かになり、「ごめん、ごめんね」という懺悔と小さく啜り泣く声が聞こえる。
母は全てを気分に左右される。
言ってることも、やってることも、気分ですぐに矛盾する。
俺はただ、晴れの日を享受して、雨の日を耐え忍ぶことしかできなかった。
「父さん、ただいま」
俺が生まれて少しで亡くなったという父の仏壇に手を合わせた。
俺は母子家庭で、山村は母の姓である。父の苗字は聞いてない。
母は未だに父を許せていないが、二人の間で何があったか、俺は何も知らない。
こんな俺でも、曲がりなりにも成人まで迎えられたのは母のお陰だと分かっている。
ただ、俺も、母の側にいると息苦しいし、母にとっても俺の言葉は刺々しいようで、よくない。
ただ、帰れる時はなるべく帰るようにしている。
母一人に、この家は少し広すぎる。
だが、俺も家に閉じこもるのは気詰まりになってきた。オンラインゲーム機も持ってこなかったしな。
母には友達と飯食ってくる、と伝えて、久々に地元のカフェに立ち寄ろうと思った。
途中、見慣れない古本屋があった。
こんなところに古本屋なんてあったかなと中を覗くと、随分と年季の入ったレイアウトに、ただ自分が気づいていなかっただけかと一人で納得した。
古本屋でふと気になって手に取ったのも、吸血鬼についての本だった。
お会計を済ませて、昔行きつけだった古いカフェに顔を出した。
マスターは俺のことを覚えていないだろうが、俺は一度だけここで紅茶を無料で出してもらったことを覚えている。
子どもの頃、訳も分からずに家から飛び出した時だった。
それから、恩返しがしたいと少しずつ通うようにしていた。
固めのプリンに深煎りコーヒーの組み合わせは格別だ。最近は柔らかいプリンも多いが、俺はこういう固い方が好みである。
一口、また一口と少しずつ口に運びながら、まるで千賀と同じように食べていると笑ってしまう。
コーヒーを読みながら、早速先ほど購入した本を開いてみた。
ーー吸血鬼、と言えばドラキュラのイメージが強いが、それは近世に作られたブラム・ストーカーの小説が始まりとも言われている。
ずっと昔から、吸血鬼と呼ばれる妖怪のような存在の伝承は世界中に存在していたそうだ。
例えば、マイナーどころで言うとボルネオ島に伝わるペナンガランなんかもそうだ。飛頭蛮に近い存在なのだろうか。
確かに、世界で蚊やダニ、ヒルなどのいない国の方が少ないだろう。世界で最も人を多く殺している生物は蚊である。生物は、多く血を失い過ぎると失血死をしてしまう。赤い血は生命の象徴で、少なくない伝承の吸血鬼は、ちゃんと埋葬されなかった死者であった。ーー
「ほぇー」
なかなか興味深い本である。
すいすいとそのまま読み進めていく。
ーー彼等は本質的には死者である。好むものや弱点はさまざまで、後付けされたものや忘れ去られたものも多い。本当のところは、彼等自身に聞いてみるしかない。
一貫しているのは、夜行性であること、血を好むということだろうか。よく挙げられる特徴としては、日光が苦手、流水を渡れない、銀が苦手、十字架が苦手(これは生前信心深かったからかもしれない)といった物理的な弱点に加え、招かれないと入れない、鏡に映らないなど、ーー
ーー同族にすることについては、一定の議論がある。だが、やはり『親』となる個体からの捕食と血液の交換が最も一般的な描写である。ーー
気がつくと、夕陽がガラスの容器を橙色に染めていた。これ以上店で長居するのも申し訳ないと思い、会計を済ませて店から一歩踏み出した。
逢魔時。
踏切は更に古ぼけて、調子が外れつつある音が響き渡っていた。
俺はどこか恐ろしくなって、そそくさと家に帰った。
夕食で母に耐え、寝て、起きて……そんなことを続けていたら、ゴールデンウィークは既に終わりかけていた。
実在の本ではなく、私が捏造した本です。




