016 たべものと化け物
橇や解体場所を洗ったりしている内に夕陽が差し込んできた。
「今日はこんなに日中動いて大丈夫なんすか?」
俺がそう尋ねると、千賀は少し考えてから、
「問題ないはずだ、これから食事も摂るからな」
そう言った千賀は確かにいつもよりも少し元気そうだ。理由は分からないが。
千賀が解体で使用した手袋などを洗って干したりしている横で、俺は解体用ハサミとメスを使ってシカの頭の皮を剥いでいた。
肉が思いの外硬い。
「私は今日、実験室に泊まる予定だ。君も好きなだけ居るといい」
「あざっす」
大方片付けが終わったので、後の作業は実験室内で行うこととなった。
「それ、本当に飲むんですか?」
「何か問題か?」
「問題しかないっす」
千賀はどこから取り出したのかお玉で新品のバケツに溜まった赤黒い液体をかき回している。
血液凝固を妨げる薬剤は効いているようで、未だゼリーのように固まる様子はない。
俺は顎の肉を丁寧に削ぎ落としながら、千賀にもご丁寧に教えてやった。
「まず血液は汚いっす。飲んだ後は胃まで殺菌してください。次にその量どうするんですか。一度じゃ無理でしょう。それに、それどうやって飲むつもりですか。直飲みですか」
「まさか」
千賀は自分のマグカップを取り出した。研究室から持ってきていたらしい。嫌に準備が良いことで。
まるでスープバーからスープを注ぐように、お玉を使って液体をコップに移し替えている。
中身は血液だが。
「それを実験したい」
千賀はまるでコーヒーを飲むかのような気軽さでカップの血を一気に呷った。
奴の喉仏が上下し、嚥下していることが分かる。
小さなため息と共に名残惜しそうにコップを口から離し、ちろりと舌で舐める。
最早何も言うまい。
「命の賞味期限だ」
「はい?」
千賀はまたスープのように血液を注いだ。
「山村。牛乳が搾乳されてからどのくらいの期間で手元に来ると思う?」
「えー、まぁ三日くらい?」
「一般的には一日から三日と言われている。また、牛乳は、ひいては哺乳類の乳というのは、血液から作られているものだ」
「あっ、そうか」
「私がスーパーで手にした牛乳が絞られてからどれだけ時間が経ったものかは不明だ。だがそれでも、食糧にはなった」
千賀はそこで一旦言葉を切ると、またコップに口をつけた。
「じゃあ、牛乳だけ飲んでりゃいいじゃないですか」
「それができたら良かった」
「できなかったんですね」
「ああ」
千賀はまたどこからか取り出したティースプーンでコップの中身をくるくるとかき回した。
この男、準備が良すぎる。
「どうやら、こう……ほうれん草のお浸しというか、牛乳は主食や主菜にはなり得ない様だ」
「ほうれん草の、お浸し」
ついリピートしてしまった。なんだそのおかずのチョイスは。微妙に分かるけれども。
「また、開封して一日以上経った牛乳は水を飲んでいるようだった」
「つまり味がしないってこと?」
千賀はコップ越しに頷く。
「普段は牛乳はどんな味なんすか?」
「それが、以前とそんなに変わらないんだ! こう、命の味というか、それが加わったくらいだ」
千賀は大きく手を動かして喜びを表した。コップは机の上にぽつんと置かれている。
「命の味ってなんすか」
「恐らく、私達の主食だ。それ以上は説明が難しい」
千賀はティースプーンで血を掬っては舐め、掬っては舐めしている。どうしてこの男はこうした飲み方ばかりをする。
「今回はな、この血や肉がどれだけの期間、食糧足り得るかを試したい。それとな、明日から出張に出る予定だ」
「ってことは」
「ゴールデンウィーク前に君と会うのは明日が最後となるな」
カランとスプーンがカップに落とされた。
「俺はもう必要ないってことですか?」
つい口を突いて出た言葉には、確かに焦りが滲んでいた。
「そんな訳ない」
千賀はあくまで落ち着いている。奴はどうして落ち着いていられるのか。
「食糧は?」
「シカがある」
「俺の手を握りたいってのは?」
「今日のシカで随分と満たされた」
「シカがいれば、俺は必要ないってことですか?」
「だからそうじゃないと言っている」
千賀はコップを置いて立ち上がった。
「私は、君に頼り過ぎている。君の好意に甘え過ぎている。一昨日も君が倒れるまで付き合わせてしまった」
「だから何なんすか。別に俺が」
「それは良くない。良くないんだ山村」
千賀は諭すようにそう言った。
「君も薄々気付いているのではないか? このままでは直に限界が来る。現に、私は君の血を抜き過ぎた。まずいと分かっていた上で、だ。君の言う通り、私は化け物だ」
外は夜の帳が下り、研究棟の明かりが煌々と輝いている。
「もう良い時間だ。後はやっておくから、人間の君は帰りなさい」
「嫌だ!」
研究室の気温がぐっと下がった気がした。
いや、俺が冷や汗をかいているのか。
「帰るんだ。山村、私はこれ以上、君を傷つけたくはない」
じく、と千賀に切られた腕の傷が痛んだ。
千賀は底光りするような目で俺をまっすぐに見つめている。
きっと、今の千賀には何を言っても通じないのだろう。
俺は何も言わずに実験室から出て行った。




