012 においと限界
「じゃ、お疲れ様ーっす」
そう言いつつ、俺が向かうのは実験室。
今度は既に扉を開けて千賀が待っていた。
怖ぇよ。ホラー映画の序盤の演出だよ。
千賀は俺が入るや否や鍵を閉め、既に準備してあった注射器のシリンジに針を取り付けた。
色々と早い。
俺が座ったと思った次の瞬間には腕に紐が巻かれていた。
「早い早い怖い」
「いくぞ」
今日の針は心なしか太い気がするのは気のせいですか、千賀先生?
「で、どうしてこんな急いでいるんですか」
「君は、食事を中断して離席したことはあるか?」
「それくらいありますけど」
「その時、変にお腹が空いて余計に多く食べてしまうことがなかったか?」
「……なるほど」
つまり、千賀はティッシュを……食べて余計に腹が減ったから、とにかく早く飯にありつきたいらしい。
俺は千賀の評価をまた一つ下げた。
俺は壁に向かっている際、もし千賀が可愛い年下の女の子だったらどうだったかとかいう益体もない想像に耽っていた。
すると、千賀の仕草や言動の一つ一つに意識が行ってしまって、これは宜しくない妄想だとすぐに打ち切った。
現に目の前にいるのは、壮年男性……おじさんだ。
残念ながら、そういう対象ではない。
「山村。君は以前私に香水の話をしたじゃないか」
「あ、はい」
かけられた渋い声に、俺の想像の女の子は跡形もなく砕け散った。千賀は正真正銘おじさんです。
「まだ私からそんな匂いがするか?」
「あー、しますね。多分これ、種族的な匂いだと思うんすよね」
「聞かせてくれ」
千賀が興味津々なのは声からでも伝わってくる。
「俺ね、実は誰にも話したことなかったんすけど、かなり鼻がいいんです。こう、遠くからでも分かるってタイプでなくて、嗅ぎ分けられる匂いが多いっていうか。千賀先生は、以前はそんな匂いがしなかったのに、ある日を境に突然果物みたいな甘い匂いがするようになったんすよ。変わった洗剤とか柔軟剤かなって思ったんすが、そうじゃないっすよね」
「ああ。洗剤の類は変えていない」
「だから、俺はこの匂いがあんたの種族的なもんじゃないかって思ってるんですよね」
「成程な。他に嗅ぎ分けられる匂いはあるのか?」
「知ってる人の匂いなら、目隠ししても分かりますね」
俺に「だーれだっ!」は効かないのだ。
「ならば」
千賀が身を乗り出した気配がした。
「もし、私と同じ種族がいたとして、それが匂いで分かるのか?」
「あー、多分。目の前とかにいたら分かりますね」
「そうか……」
千賀はそのまま黙り込んでしまった。
俺は気になって後ろを向こうとしたが、以前見た目のやり場に困る光景をまた見せつけられたくもなかったので、我慢して諦めた。
「それで、なんだが。山村、こちらを向いて大丈夫だ」
「あっ、はい」
千賀は空になったシリンジを残念そうに見つめている。
「私は、血の味で大まかな体調が分かる」
「はぁ」
「これ以上、血を抜いたら良くないということも分かる」
「はい」
言いたいことが分かったが、これは千賀に言わせることに意味があるから、とぼけた振りをしておく。
「だが、いや、しかし……」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってください……っ」
俺は我慢できずに立ち上がった瞬間、意識が遠のいた。
次の瞬間、俺は倒れる姿勢で千賀に抱き止められていた。
「大丈夫か?!」
気を失っていたのは数秒か、そこらか。
千賀は本気で焦っているのが分かるが、それ以上に千賀の体は冷たい。まるで死人のようだ。
「今日はやめておこう。最寄駅まで送ろうか」
俺は力なく頷き、千賀の言葉に甘えることとした。
結局、千賀は俺の自宅まで送ってくれた。
俺はぼーっとしながら備蓄した冷凍パスタをレンジで温めた。
何だか頭がふわふわして考えがまとまらない。
これでは食事中に寝てしまいそうだが、明日もあるから飯だけでも食べなければ。
今日は風呂……はいいや。
温めたのは、たまたま半額だったニンニクの効いたスパゲッティ。
実は、俺はニンニクなどの香味野菜があんまり得意ではないのだが、単に安かったから買ってみた。
やはり、匂いがきつい。だが、だからこそぎりぎり目を覚ましながら食べられるという絶妙な塩梅だった。
吸血鬼って確かニンニクとか苦手だったよなと思うも、まぁこの状態で血を抜かれる方がまずいから結果オーライではないかなと思いつつ、全部食べ尽くすことができた。
半ば寝ながら歯を磨いて、地元の掲示板でもらった念願のソファの上に寝っ転がったらもうダメで、何とかクッションを腹の上に乗せた頃に力尽きた。




