第5話:別の世界へと続く亀裂
【本編】
東京の夜は、いつもよりも静かに感じられた。
街の灯りは変わらず瞬き、
人々の足音も絶えることはない。
だが——
その空気のどこかに、
明らかな『違和感』が漂っていた。
ザラビスは道端に佇み、ただ空を見上げていた。
「……奇妙だな」
彼の隣で、ミジャルンも足を止める。
「お兄ちゃん……私も感じる」
周囲の空気が重く圧し掛かる。
それは単なる気圧の変化などではなく——
まるで空間そのものが、ゆっくりと軋み、移動しているかのようだった。
少し離れた場所にいたユウカも、眉をひそめる。
「これ……普通の気配じゃない……何かがおかしい」
ザラビスがゆっくりと顔を上げる。
鈍く紅く輝く瞳が、天を射抜く。
「……この世界の境界線に、何者かが触れている」
沈黙。
——
ピキッ……
音は大きくはない。
だが、その一瞬、世界の理が歪むのを感じた。
空が——
裂けた。
物理的に割れたのではない。
現実を構成する層が、紙一枚分、裂けて開いたのだ。
ミジャルンが慌ててザラビスの手を取る。
「お兄ちゃん!」
ザラビスは動じない。
ただ、その光景を眺めている。
「……面白い」
だが——
ガシャアアンッ!!
今度の音は明確だった。
地面が揺れ、
街の灯りが一斉に明滅し、
人々の声は次第に掻き消えていく——
まるでこの世界のスイッチが、ゆっくりと『切』られていくかのように。
ユウカが一歩後ずさる。
「一体……何をしたの……?」
ザラビスは無表情に答える。
「……何もしていない」
だがそれこそが、最も危険な事実だった。
——
重力が歪む。
空気が捩れ、
光が一点へと吸い寄せられる——
彼らの真上へ。
そこに、漆黒の亀裂が出現した。
それは普通の転移門でもなければ、魔法でもない。
名前という概念すら持たない、未知なる『何か』。
ミジャルンが兄の手を強く握りしめる。
「お兄ちゃん……これ、この世界のモノじゃない……」
ザラビスの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「……悪くない」
瞬間——
すべてが、呑み込まれた。
——
静寂。
——
柔らかな風が頬を撫でる。
そこはもう、
東京の空気ではなかった。
——
異世界
視界一面に、広大な大地が広がっていた。
空気は濃密なエネルギーに満ち、
絶え間なく魔力の奔流が流れているのが感じられる。
ザラビスはただ佇んでいた。
驚きもせず、慌てることもなく。
「……転移したか」
ミジャルンはきょろきょろと周りを見回し、目を輝かせる。
「お兄ちゃん……ここ、地球じゃないね!」
ザラビスはゆっくりと頷く。
「ああ」
彼は腕を組む。
「この世界……生きているな」
ミジャルンが笑顔になる。
「だったら……きっと、楽しいことがいっぱいあるよ!」
ザラビスは少しだけ間を置き、
「……あぁ」
——
森での遭遇
二人はゆっくりと森の中へと進んでいく。
天に届くほどの巨木が連なり、
空気は先ほどよりもさらに重く、
未知だが安定した力に満ちていた。
やがて——
ミジャルンがぴたりと足を止める。
「お兄ちゃん……誰かいる」
草むらの中に、一人の女性が倒れていた。
長く伸びた耳。
衰弱しきった体。
ミジャルンがそっと近づく。
「見て……耳の形が、私たちと違う」
ザラビスは無表情に観察する。
「……別の種族、か」
沈黙。
心の中で彼は考える。
(こういう時、他の者はどう反応するのだろう?)
試しに、口を開く。
「うぇ……これが噂の、エルフというヤツか?」
声色はぎこちなく、動きもどこか不自然だ。
ミジャルンがくすくすと笑い出す。
「お兄ちゃん……それ、全然自然じゃないよ?」
ザラビスはその場に座り込む。
「ミジャルン……」
「なぁに?」
「『普通』になるには……どうすればいい?」
ミジャルンはにっこりと笑う。
「大丈夫! お兄ちゃんなら絶対できるよ!」
ザラビスは彼女を見つめる。
「……あぁ」
「……努力してみよう」
——
洞窟の夜
彼らはエルフの女性を近くの洞窟へと運んだ。
粗末だが、休むには十分な場所だ。
ザラビスは、寄り添って眠るミジャルンの姿を見て、
次に、横になるエルフの女性を見た。
「……この世界の生き物は、こうして近くに寝るのか?」
ミジャルンが眠たそうな声で答える。
「うーん……暖かいから、じゃない?」
ザラビスは頷く。
「理解した」
彼は躊躇うことなく——
エルフの女性のすぐ隣に横になった。
あまりにも近すぎる距離。
ミジャルンは笑いを噛み殺す。
——
夜。
静寂が訪れる。
——
ふと、エルフの女性が目を覚ました。
体が強張る。
誰かが、自分を抱きしめている。
反射的に——
彼女は弓に手をかけ、弦を引き絞った。
だが、動きは止まった。
その顔は——
あまりにも穏やかだった。
殺意もなく、
敵意もなく。
彼女はゆっくりと武器を下ろす。
(……これは、一体……?)
困惑しながらも、彼女は再び目を閉じた。
だが、少しだけ体を遠ざけて。
——
気まずい朝
夜が明ける。
エルフの女性は、音を立てないように立ち上がり、こっそり逃げ出そうとした。
「足取りが、不安定だな」
背後から、突然声が降ってくる。
彼女は即座に反応し、矢を放つ!
だが矢は標的に触れる寸前、粉々に砕け散った。
無表情なザラビスが、そこに立っていた。
ミジャルンが慌てて間に入る。
「待って! 私たち、悪い人じゃないよ!」
「道で倒れてるところを助けたの!」
エルフの女性はその場に凍りつき、やがて肩を落とす。
「……ごめんなさい」
彼女は頭を下げる。
「あなたたち……家族なの?」
ザラビスが首を傾げ、ミジャルンを見る。
「ミジャルン。『家族』とは、何だ?」
ミジャルンはため息をつく。
「それはね……血の繋がった仲間のことだよ」
ザラビスは頷く。
「理解した」
「私は、彼女の兄だ」
ミジャルンが元気よく手を挙げる。
「私は妹です!」
エルフの女性は、思わず口元を緩める。
「……私の名前は、アエレル・アシア」
——
魔王について
「どうしてこんなところにいたの?」とミジャルンが問う。
アシアは俯く。
「……私たち、負けたのです」
「たった一人の存在に」
沈黙。
「『魔王』に……」
ザラビスが少しだけ身を乗り出す。
「……面白い」
ミジャルンが慌てて彼の口を塞ぐ。
「お兄ちゃん! ダメ! 言っちゃ!」
ザラビスは低くくつくろう。
「もし、本当に強いのなら……」
「……きっと、アイツも退屈しているだろう」
アシアは言葉を失う。
——
誘い
「もし、あなたたちに行くあてがないのなら……」
アシアが静かに言う。
「私と一緒に来ませんか?」
「『ムシャフ王国』へ」
ミジャルンが即座に反応する。
「行こう、お兄ちゃん!」
ザラビスはゆっくりと頷く。
「……あぁ、いいだろう」
遠くから
水晶の塔の上。
黒いローブを纏った二人の存在が、下界を見下ろしていた。
「そのエネルギー……この世界のものではない」
「報告せよ」
「ムシャフ領域内に、二体の外来存在が侵入を確認」
沈黙。
「……魔王ヴァウ様に、このことをお伝えせねば……」
そして、誰もがまだ知らない。
彼らの旅が
今、ようやく幕を開けたばかりだということを。




