第28話: インフェルナルスクラッチ
灰色の霧がコトラートの空に低く垂れ込めていた。
青空もなければ、心まで温める太陽もない。夜でさえ、まるでゆっくりと腐敗していく夕暮れのようなものだった。
ザラビスの開いた紫のポータルが、静かな森の真ん中に浮かんでいた。
ゴウッ——
次元の光がまるで宇宙の液体のように渦巻き、次の瞬間、二つの影を外へと吐き出した。
ソーニャは湿った地面に尻もちをつきながら、小さくせき込んだ。
「うっ……転移なんて大嫌い……」
彼女の前では、ザラビスがまだ落ち着き払ったまま、姫抱きに彼女を抱えて立っていた。まるでこの世で最も普通のことであるかのように。だが明らかに普通ではない。宇宙由来の存在は、時折羞恥心という概念を失っているらしい。何十億年も進化したくせに、やはりどこかおかしい。
ソーニャは自分の置かれた状況にようやく気づき、
顔が瞬く間に真っ赤になった。
「下ろしなさいっ! この悪魔っ!」
ザラビスは無表情に彼女を見下ろした。
「……生き返ったと思ったら、随分と騒がしいな」
「それとこれとは話が別でしょ!?」
彼はようやくソーニャをゆっくりと地面に下ろしたが、彼女がふらついたので肩を掴んだまま離さなかった。
「ほら見ろ」ザラビスはどこか面倒くさそうに指をさす。「お前は今にもまた倒れそうだ。さっきの五秒という見積もりは、随分と甘かったらしい」
ソーニャは鋭く睨みつける。
「バカにするのもいい加減にしなさい!」
ザラビスは議論を放棄した人間のように手を上げた。
「わかった。だが、落ちてもいい崖は今のところないから安心しろ」
ソーニャの動きが止まる。
「……崖?」
ザラビスは彼女の背後を指し示した。
ソーニャが振り向くと、
そのまま体が凍りついた。
背後には絶壁がそびえ立ち、遥か下では黒い霧が渦巻き、底の見えない煙の海のようになっていた。
小さな石が落ちていく……
やがて衝突音は、いつまでも響いてこなかった。
ソーニャ:「……はい」
彼女はゆっくりと前に戻り、
「……わかった。ありがとね」
ザラビスは小さく頷く。
「お安い御用だ」
その瞬間——
彼の表情が一変した。
赤い瞳が細められ、
先ほどまでののんびりとしたオーラが、まるでスイッチを切るように消え去った。
瞬く間の動作で、ザラビスはソーニャを自分の側に引き寄せ、手で彼女の口を塞いだ。
「静かに」
ソーニャは体を硬直させる。
空気の重さが変わったのがはっきりとわかった。
辺りの木々までが、まるで頭を垂れるように静まり返っている。
ザラビスは暗い森の奥を睨みつける。
「スクウォーター・スネークのポータルが、今開いた」
ソーニャは唾を飲み込んだ。
「彼ら……私たちを追ってきたの?」
「まだだ」ザラビスの声は低い。「だが、俺たちの痕跡を嗅ぎつけた」
その時、彼は眉をひそめた。
「……ん?」
ソーニャが瞬きをする。
「どうかしたの?」
ザラビスは真剣に思考する表情になる。
「少し待て」彼は遠くの方を指さす。「あいつらにも、力の系統があるのか?」
ソーニャ:「……はあ?」
そこで彼女は重大なことに気づいた。
自分はまだ、コトラート世界の仕組みについて何も説明していなかったのだ。
「あ、そうだった!」彼女は慌てて小声で話し始める。「この世界では、人間でも長く修行を積めば特別な力を使えるようになるの! 主な力の系統が五つあるんだけど、私が知ってるのは一つだけ……」
ザラビスは周囲を警戒しながら、集中して聞いている。
「名前は?」
「ゴタオ流術式」ソーニャは急いで説明する。「毎日硬いものを叩き続けて、体そのものを変化させる修行法なの。伝説によると、達人になれば一撃で都市一つを破壊できるんだって」
ザラビスは二秒ほど黙り込んだ。
「……ほう」
ソーニャはすぐにまた睨みつける。
「『ほう』だけ!? 私、あんなに長く説明したのに!」
「悪い」彼はまったく悪びれた様子もない。「四年間も毎日石を叩き続ける人間を想像していた。それは随分と悲しい生き方だと思ってな」
ソーニャ:「それが『修行』ってものなの!」
「人間とは不可思議だな」
ソーニャがさらに反論しようとした瞬間——
パキッ。
遠くの方から、枝の折れる音が響いた。
ザラビスの姿が霧へと変化する。
体が薄れ、濃い紫の透明な靄となった。
「もう喋るな。俺について来い」
彼はソーニャの手を取ると、木々の間を音もなく駆け抜けた。
足音一つ立てず、
ただ一筋の影が霧の中を滑るように進んでいく。
スクウォーター・スネーク —— 森の別の場所
青いポータルがゆっくりと開き、
五つの影が次々と外へ出てきた。
辺りの霧が、一気に冷たさを増す。
最前列に立つのは、黒牙の蛇・クロキバ。
長い黒髪が風になびき、黄色い爬虫類のような瞳が、狩猟の喜びに細められている。
「ああ……」彼はゆっくりと息を吸い込む。「悪魔の残り香が、まだ新鮮だ」
背後では、チョウエイ・ジャが笑い声を上げる。
「あいつのオーラ、気に入らないね」
ハガネ・ヒダが凶悪に笑う。
「あいつの頭蓋骨を踏み砕いてやりたい」
その横で——
シラナギは黙り込んでいた。
手はいつもより強く、刀の柄を握りしめている。
この森の中に、二つの異なる気配があるのを感じていた。
一つ目は……
暗く、膨大で、周囲を圧倒するほどに重い。
二つ目は……
まだ幼く、不安定だが、不思議な光を放っている。
——ソーニャだ。
クロキバが横目でシラナギを見る。
「お前も感じたか?」
シラナギはゆっくりと頷く。
「……ああ」
「いいだろう」クロキバの笑みが深まる。「今は手出しをするな」
シラナギが眉をひそめる。
「なぜだ?」
クロキバは霧立つ森の奥を見つめる。
「俺は見てみたいんだ」瞳が細められる。「あの悪魔が、どこまであの小娘を守り通すつもりなのかをな」
その言葉を聞いた瞬間——
シラナギの胸の奥に、嫌なざわめきが広がった。
岩の割れ目 —— 一方その頃
巨大な木の根元に挟まれた、細い岩の割れ目。
ザラビスとソーニャはそこに身を潜めていた。
目の前を、霧がゆっくりと流れていく。
ザラビスは目を閉じ、
解析機能が、瞬時に起動する。
ピッ——
五つのオーラが明確に捉えられた。
クロキバ、シラナギ……それに他の三名。
彼は低く舌打ちをする。
「ちっ……幹部まで出張してきやがったか」
ソーニャの顔が青ざめる。
「ク、クロキバって……どれくらい強いの?」
ザラビスは目を開き、
その瞳には厳しい光が宿っていた。
「あいつに捕まったら……おしまいだ」
ソーニャの体が凍る。
「どういう意味……?」
ザラビスは真っ直ぐに彼女の目を見つめる。
「あいつは、お前の体なんか必要としていない」
ソーニャは震え上がる。
「必要なのは……お前の魂だけだ」
静寂が辺りを包み、
霧が岩肌を這うように流れ過ぎていく。
ソーニャの喉が、カラカラに渇くのを感じた。
その時、ザラビスが彼女の両肩を掴んだ。
悪魔特有の低い声が、少しだけ柔らかくなる。
「聞け」鋭い瞳のままだが、その声は落ち着いていた。「俺がいる限り、あいつらはお前に触れさせない」
ソーニャはゆっくりと頷き……
次の瞬間、二人の顔があまりにも近いことに気づいた。
あまりにも、近すぎる。
ソーニャの頬が一気に燃えるように赤くなる。
ザラビスも数秒遅れで事態に気づき、
「……あ」
わざとらしくせき払いをしながら、少しだけ体を離す。
「ええと……悪い」
ソーニャは慌ててうつむく。
「だ、大丈夫だから……」
その直後——
ドオオオオンッ!
ポータルの方向から、大きな爆発音が森全体を揺るがした。
黒い鳥の群れが一斉に飛び立ち、
地面が大きく震動する。
ソーニャは反射的に、ザラビスの腕にしがみついた。
「周囲を破壊し始めたらしい……」ザラビスが低く呟く。「俺たちをおびき出すつもりだ」
ソーニャは慌てふためく。
「逃げましょうよ!?」
ザラビスは口元をゆがめて笑う。
それは友好的な笑みではなく、
捕食者の笑みだった。
「いやだね」
ソーニャ:「……いやだって?」
「俺たちは隠れ続ける」彼は自分自身を誇らしげに指さす。「そして俺がお前を鍛えてやる」
「……それ、逃げてるだけでしょ!」
「違う」彼は真剣な顔で首を振る。「これは戦略だ」
「戦略なんて言葉、使えばいいと思ってるでしょ!」
ザラビスは逆に満足げな表情になる。
「俺も少しずつ、指導者としての才覚が出てきたらしい」
「指導者としては最悪だから!」
遠くの方から——
霧に紛れて、クロキバの声が重々しく響いてくる。
「ソーニャ……お前の匂いなら、とっくに嗅ぎつけているぞ」
ソーニャの中で、恐怖が限界まで膨れ上がった。
ザラビスが彼女の手を強く握りしめた。
「走れ」
修行、開始
小さなポータルが開き、
二人は再び空間を移動した。
辿り着いた先は、さっきよりもさらに暗い森の奥地だった。
黒ずんだ木々がまるで亡者の手のように空へ向かってそびえ立っている。
ソーニャがようやく体勢を整えた瞬間——
ドオオオンッ!
目の前の地面が大きく砕けた。
透明な黒い人影が、耳をつんざくような叫び声と共に出現する。
瞳は真っ赤に光り、
体は異常なほどに痩せて長く、
動きはまるで壊れた人形のようにぎこちなく、ぎくしゃくとしていた。
ソーニャは思わず悲鳴を上げる。
「なにこれ!?」
ザラビスはというと、岩の上にゆったりと腰を下ろし……なんとペロペロキャンディーをなめていた。
どこから取り出したのか、まったく見当もつかない。
「ああ、あれか?」彼はだるそうに指をさす。「試作体〇三号だ」
「……なんで三号まであるの!?」
「一号と二号は使い物にならなかったからな」
ソーニャ:「失敗した理由なんて、絶対聞きたくないんだけど!」
試作体〇三号が、今度は奇妙なジグザグ走行でソーニャへと突進してくる。
キィィィィーーッ!
ソーニャは反射的に逃げ出す。
「ギャアアアアア! 悪魔っ! これが修行なの!?」
「生き残るための訓練だ」
「これはただの嫌がらせだわっ!」
化け物は容赦なく彼女を追いかける。
ソーニャは木の根っこを飛び越え、
幹にぶつかり、
慌てて立ち上がり、
危うく小さな崖から落ちそうになりながら必死に逃げる。
そんな彼女に向かって、ザラビスは後ろから大声で叫ぶ。
「足の運びが間違ってる!」「左足に力が入りすぎだ!」「生きたくないのか!?」
ソーニャはもう泣きそうだった。
「生きたいに決まってるでしょおおお!!」
化け物が再び襲いかかってくる。
その瞬間——
ソーニャの瞳が真っ赤に燃え上がった。
瞳の奥に、細い渦巻き模様が浮かび上がる。
彼女の中に封じられていた何かが、音を立てて解き放たれた。
ザラビスはキャンディーをしゃぶる手を止める。
「……随分と早いものだな」
試作体が襲いかかる。
ソーニャは無意識に手をかざした。
バシャアアアアッ!
闇がかった赤い筋が、悪魔の爪のように空間を切り裂き、
化け物は一瞬にして黒い塵へと裂け散った。
辺りが静けさに包まれる。
ソーニャは荒い息をつきながら、自分の手をじっと見つめていた。
「わ、私が……?」
ザラビスはゆっくりと彼女に近づく。
その表情には、困惑と驚き、そしてわずかな賞賛が浮かんでいた。
「お前の最初の技が、今生まれた」
彼はまだ宙に漂う赤いエネルギーの残り香を観察する。
「……なかなか興味深い」
ソーニャは期待に満ちた目で彼を見上げる。
「名前、なんていうの?」
ザラビスは五秒間、真剣に考え込んだ。
たかが技に名前をつけるだけなのに、まるで重大な儀式のようだ。宇宙由来の存在は、自分の楽しみのためには大げさになりすぎるところがある。
やがて彼は指を鳴らした。
「『インファーナル・スクラッチ』」
ソーニャはゆっくりと繰り返す。
「……インファーナル・スクラッチ……」
そして——
コトラートの世界へ来てから今までで初めて、
ザラビスはただ純粋に、誇らしそうに笑った。




