第27話: 魂の避難所と蛇の追跡
灰色の霧が、コトラット市西部地区の廃墟をすっぽりと覆っている。
夜風が、骨組みだけが残った崩れかけた建物の間をゆっくりと通り抜ける。砂埃、血、鉄錆、湿った土の臭いが混ざり合い、この腐りきった街特有の重たい臭いを生み出していた。
ひび割れた大通りには、倒れ伏した犯罪者たちの死体が転がっている…
その只中に、ソーニャはまだ立っていた。
荒い息遣い。
巨大な黒い鎌を握る手は、激しく震えている。
「はあ…はあ…サタン…私は…私は…」
先ほど人型へと姿を戻したザラビスが、のんびりと彼女の方を向く。
「はいはい、落ち着い――」
ドサリ。
ソーニャがその場に前のめりに倒れ込んだ。
辺りが静まり返る。
霧が、ゆっくりと彼女の体の上を流れていく。
ザラビスは無言のまま。
一秒。
二秒。
五秒が過ぎ…
「……」
やがて、彼の瞳がわずかに見開かれる。
(心の声)
「…は?」
「…まさか」
「…死んだのか?」
「…俺、やっと一人できた友達が」
「…死ぬとかナシだから」
彼の周囲の黒いオーラが、今にも爆発しそうなほどに膨れ上がる。
だが、そのほんの一瞬後。
ザラビスはしゃがみ込み、ソーニャの呼吸を確認する。
「…ああ」
沈黙。
「…単に気絶しただけか」
彼は手で顔を覆い、深いため息をつく。
「まったく…ソーニャよ。また人生の悲劇ごっこかと思った」
ザラビスはゆっくりと彼女のそばに腰を下ろす。
ソーニャの体は細かな傷とあざだらけで、呼吸こそ安定しているものの、体力は完全に尽き果てていた。
「…犯罪者二十人にボス一人と戦ったばかりだもんな」と彼は小さく呟く。
「人間ってやつは、本当に壊れやすい生き物だ」
それでも…
その声は、どこか柔らかい。
彼はソーニャの頭を、そっとなでる。
「お疲れさん。ゆっくり眠ってろ」
この瞬間だけ、ザラビスの表情は穏やかだった。
心から、落ち着いていた。
まるで、誰かが自分の側にいてくれることを、心から喜んでいるかのように。
新たな来訪者
ザラビスがソーニャを抱き上げようとした、まさにその時――
ドドドドド…
足音が響く。
一人ではない。
二人でもない。
五人。
北の方角から、一斉に迫ってくる。
ザラビスの瞳孔が、肉食獣のように鋭く収縮する。
「…ほう?」
彼の周囲の空気が、一気に冷たくなる。
ザラビスはゆっくりと立ち上がり、ソーニャの体を自らの背で隠すように前に立つ。
そして、ほんの一瞬だけ――
彼は自身の力の封印を一つ解いた。
《解析同調》
真っ赤な瞳が妖しく輝き、世界の時間がほんのわずかに停止したように感じられる。
次の瞬間――
ドッと。
膨大な情報が、彼の脳内へと流れ込んでくる。
検出データ
- 組織:上級犯罪組織
- 名称:暗蛇宿 / スクウォーター・スネーク
- 活動中の構成員:5名
- 危険度:高
- 特徴:- 完全な連携行動
- 極限の狩猟能力
- 女性構成員1名を含む
ザラビスはゆっくりと瞬きをする。
「…待て」
彼はもう一度、データを読み直す。
「…女がいる?」
その事実について、まるまる二秒間、真剣に考え込む。
(男ばっかりの犯罪組織で、しかも獲物を狩るタイプ…)
(そんな中に女がいるだと?)
(…なんでだ?)
ザラビスにとって、この疑問は次元崩壊の理論よりもはるかに理解しがたいものだった。
「…もしかして男勝りな性格とか?」彼は真剣な顔で呟く。
「それとも、命知らずなだけか?」
そして小さく息をつく。
「…人間ってのは、本当に複雑だな」
暗蛇宿
立ち込める霧が左右に割れ、月明かりの下に五つの影がゆっくりと姿を現した。
彼らはまるで獲物を包囲する蛇のように、円陣を組んで歩いてくる。
黒いジャケットの背中には、自らの尾を食らう蛇の紋章が刻まれている。
そして彼らの纏うオーラは…
他とは違っていた。
彼らはただの街の犯罪者などではない。
生粋の「狩人」だ。
1.黒牙の蛇 — クロキバノヘビ
「牙に毒を持つ蛇」
リーダー格。細身の体つきに、長い黒髪。爬虫類のような黄色い瞳。
足元では、黒い鎖が生き物のようにうごめいている。
2.鋼皮蛇 — ハガネヒダ
「鋼のような皮膚を持つ蛇」
大柄で坊主頭の男。顔の半分まで、ウロコの刺青が覆っている。
3.跳影蛇 — チョウエイジャ
「影に紛れ跳躍する蛇」
小柄な体つきで、狂気じみた笑みを絶やさない。瞳だけが異常な速さで動き回る。
4.盲撃蛇 — モウゲキジャ
「目隠しした重撃の蛇」
目隠しをした長身の男。五人の中で、最も重く強大な力のオーラを放つ。
5.白薙蛇 — シラナギジャ
「白き刃で薙ぎ払う蛇」
唯一の女性。ショートカットの白い髪に、冷静な赤い瞳。
腰には黒い刀を下げている。
五人全員を眺め回した後…
ザラビスは迷うことなく、この彼女を指さした。
「あのさ」と彼は無表情に言う。
「なんで女がいるわけ?」
辺りが水を打ったように静かになる。
霧が、ゆっくりと流れる。
シラナギがわずかに眉を上げる。
「…それが、最初に出てくる言葉なの?」
「ああ」ザラビスは正直に答える。
「だって意味分かんないだろ」
気絶しているソーニャの方が、よほど常識的に見えるほどの会話だった。
対 峙
クロキバが一歩前に出る。
鋭い瞳がソーニャの姿を捉える。
「つまり、この小娘が我々の仲間を二十人も皆殺しにしたというわけか」
ザラビスは即座にソーニャの前へと立ちはだかる。
「そうだ」
少しの間を置き、彼は冷たく言い放つ。
「…何か問題でも?」
クロキバが口元に薄笑いを浮かべる。
「大いに問題だ」
彼の周囲では、黒い鎖が飢えた蛇のようにうごめき始める。
「我々は先ほどから、お前たちの戦いぶりを見ていた」
「お前たちは生かしておくには、あまりに危険すぎる」
ザラビスは小さく鼻で笑う。
「…笑わせるな」
彼の瞳が、さらに鋭い光を帯びる。
「この街で真に危険な存在は、お前たちの方だろうが」
空気が一気に張り詰める。
他の四人も臨戦態勢に入り、殺気が渦巻く。
シラナギだけは、静かにザラビスを観察し続けていた。
その視線が、わずかに変化する。
まるで、目の前の存在の正体を読み取ろうとするかのように。
攻撃不可能な存在
ザラビスは無言のまま、ゆっくりとソーニャの体を抱き上げる。
少女の体は力なく、彼の腕の中でだらりと横たわる。
「戦いたいなら、好きにすればいい」彼はのんびりと言う。
「だが、今じゃない」
ソーニャの寝顔をちらりと見て、彼は続ける。
「俺の友達が、今ちょうど眠っている最中なんでな」
クロキバが鎖を高く掲げ、威嚇するように鳴らす。
「我々が、お前を見逃すとでも思っているのか?」
ザラビスは悪戯っぽく笑う。
「…許可なんて、求めるつもりもないけどな」
次の瞬間――
彼の体が、ゆっくりと透け始める。
瞬間移動でもない。
超高速移動でもない。
彼の肉体そのものが、透明な霊体へと変質していく。
黒い霧がソーニャの体を包み込み、二人の姿はまるで煙のように、ゆっくりとこの世界から消え去っていく。
ハガネが驚いて一歩踏み出す。
「なんだあれは!?」
「消えた!? 完全に消えやがったぞ!」
チョウエイが急いで気配を探ろうとするが、顔を歪める。
「…どこにも反応がない! ありえない!」
クロキバが目を細め、低く唸る。
「…逃げたわけじゃない」
「…あれは、次元干渉の術式だ」
シラナギが、何もない空中をじっと見つめる。
「…あいつは、人間じゃない」
静かな沈黙が流れる。
「…それに、角が生えていた」彼女は低い声で続ける。
「はっきりと、見えた」
クロキバが歯軋りする。
「…何者だろうと関係ない…」
「…必ず、戻ってくるはずだ。その時に仕留める」
霊次元
そこは、静寂に包まれていた。
光の海のように透き通った世界。
薄紫の空が果てしなく広がり、遠くには建物の残骸が、まるで夢のかけらのようにゆっくりと浮かんでいる。
ザラビスはソーニャを抱えたまま、この世界をゆっくりと歩いていた。
「…人間は本当に壊れやすいな」彼は小さく呟く。
「ちょっと英雄ごっこしたら、五分でダウンだ」
だが、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
「…だが、よくやった」
彼はソーニャの頬についた小さな擦り傷を、そっと指でなでる。
その動きは慎重で。
まるで壊れ物を扱うように、優しかった。
ソーニャがゆっくりと目を開ける。
「…んぅ…」
視界がぼやけ、焦点が合わない。
「…は?」
彼女は驚いて慌てて起き上がろうとする。
「ここはどこ!?」
ザラビスは周囲を指さし、何事もないように言う。
「ああ? 宇宙次元の、借り物の空間だ」
「…借り物!?」
「そ」
「宇宙次元を、鍋でも借りるみたいなノリで借りてきたの!?」
「…普通じゃないの?」
ソーニャは数秒間、無表情に彼を見つめる。
「…あなたの常識が、だんだん怖くなってきた」
ザラビスは手を衣のポケットに突っ込み、のんびりと歩き続ける。
「この次元は、俺の知り合いの領域だ。名前はウルミナ・フェロン」
「その人は、いわゆる宇宙的な存在なの?」
「ああ」
「…そんなすごい存在が、あっさり貸してくれるの?」
「だいたい『ああいいよ』って言って、また寝てる」
ソーニャは頭を抱える。
「…犯罪者集団と戦ったトラウマが、まだ完全に終わってないのに…」
解 説
ザラビスが手をかざすと、空中に五つの立体映像が浮かび上がる。
「お前が気絶している間に、連中が本格的に俺のことを探り始めた」
ソーニャの目つきが変わり、集中する。
「…連中って?」
「暗蛇宿のことだ」
映像が一つずつ切り替わる。
クロキバ。
ハガネ。
チョウエイ。
モウゲキ。
そして――
シラナギ。
ソーニャは即座にその女性を指さす。
「待って! マジで女の人がいるじゃない!」
「俺もそこが不思議でしょうがない」
「なんでそこばっかり気にするの!?」
「だって不自然だろ」
「…サタン、頼むから話を進めて」
ザラビスは指をシラナギへと向ける。
「あいつが、一番危険だ」
「…あの女が?」
「本能の鋭さが段違いだ」
ザラビスの瞳が、わずかに険しくなる。
「…俺が人間じゃないことに、もう気づいていた」
ソーニャが言葉を失う。
「…彼女は悪い人なの?」
「さあな…」
ザラビスは少し考えてから答える。
「…完全な悪党というわけでもなさそうだ」
「他の連中のように、残虐行為を楽しんでる様子がなかった」
「それに、勘のいい奴でな。俺が敵じゃないと感じ取っているようだった」
ソーニャは安心したように、小さく笑う。
「だってあなたは、本当に悪い人じゃないもの」
ザラビスは即座に勢いよく振り返る。
「俺はれっきとした悪魔だからな」
「…でも、むやみに人を傷つける悪魔じゃないでしょ?」
ソーニャはおかしそうに笑う。
そして、なぜか――
ザラビスは自分の胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じていた。
震 動
突然――
ゴオオオオ…ン。
次元全体が大きく揺れ、重低音が響き渡る。
上空の空に、細い亀裂が無数に走り始める。
ソーニャは驚いて立ち上がる。
「なに!? 何が起きてるの!?」
ザラビスは深いため息をつく。
「…連中、探知の儀式を始めやがった」
(心の声)
(まったく…この次元を街の近くに設定したのは、俺のミスか)
ソーニャは慌てふためく。
「彼らがここに入って来れるの!?」
「通常なら絶対に無理だ」
「…でも?」
「シラナギがいる」
ザラビスの目が鋭く細められる。
「あいつの感知能力が、常軌を逸している」
空の亀裂が、さらに大きく広がる。
ソーニャは無意識に、ザラビスの側へとぴったりと身を寄せる。
「…私たち、大丈夫だよね? 逃げ切れる?」
「…ウルミナが起きなければ、まあ大丈夫だ」
「…それは逆に怖すぎる条件だと思うんだけど!?」
「そうだな」
ザラビスは何でもないように答える。
「もしあいつが機嫌を損ねて起き出したら、文句を言いながら多元宇宙ごと消し去るだろうからな」
ソーニャ:「…………」
「…あなたがどうして不思議な存在なのか、だんだん分かってきた気がする」
「それは侮辱か?」
「ちょっとだけ」
退 出
ザラビスはソーニャに近づくと、そっと彼女の頭に手を置く。
「落ち着け」
その声は、とても柔らかい。
「奴らがこの次元の入り口を特定する前に、ここを出る。安心しろ」
ソーニャはゆっくりとうつむく。
「…サタン」
「ん?」
「…ありがとう」
「…私のこと、守ってくれて」
ザラビスは少しの間だけ黙り込む。
それから、優しく笑う。
「…前にも言っただろ」
「俺は…友達が欲しいだけなんだ」
ソーニャの頃が、みるみるうちに赤く染まる。
ザラビスはわざとらしく空を見上げる。
(…なんで人間って生き物は、こうも簡単に顔が赤くなるんだ?)
次元の出口
次元の亀裂が限界まで広がり、世界が軋むような音を立てる。
ザラビスはソーニャをお姫様抱っこに抱え上げる。
「え!? ちょっと!? 何するの!?」
「お前はまだ立てる状態じゃない」
「歩けるってば! 自分で歩ける!」
「ダメだな」
「歩けるってばあ!」
足元の床が、大きく砕け散る。
ソーニャは顔を青くして慌てる。
「…分かった! 抱っこして! 早く逃げて!」
「そうこなくっちゃ。賢いな」
目の前に青い光の扉が開かれる。
強い光が二人を包み込み――
彼らの姿は霊次元から消え去った…
その遠く離れた現実世界では。
シラナギが、ゆっくりと赤い瞳を開く。
「…見つけたわ」




