第18話:言葉にされないこと
夜・寮の部屋
狭い部屋は静まり返っている。
照明はぼんやりと灯ったまま。
美邪流が入浴を済ませ、髪は半乾きのままベッドに座り、枕を抱えていた。くつろいだ様子だが、その瞳はいつものように生き生きと輝いている。
ドアが開く。
怜治がコンビニの袋を手に、部屋に入ってきた。
いつも通りの足取り。
あまりにも、いつも通り。
美邪流がチラリと視線を向ける。
「お兄様、夜食? 珍しいじゃない」
怜治はテーブルにおにぎりを置く。
その動作は……実に丁寧だ。
少し、丁寧すぎるくらいに。
「腹減った」
短い返事。
美邪流は少しだけ目を細め、
小さな笑みを浮かべる。
「……誰かに会ってきたんでしょ?」
怜治は黙ったまま。
目を逸らすわけでもなく、
かといって肯定するわけでもない。
美邪流はベッドから降り、彼の近くに腰を下ろす。詮索するのではなく、ただそこにいる、というように。
「邪魔なんてしないよ。ただね……お兄様が他の人といる時、ちゃんと自然にできてるのかなって、思っただけ」
怜治はビニール袋をゆっくりと閉じる。
「……あいつは、ただの人間だ」
「ふーん……でも、お兄様はあの人の前で足を止めたじゃない」
沈黙が少し流れ、
怜治はようやく口を開いた。
「……あいつは、俺を見たんだ」
美邪流は続きを待つ。
「……脅威として、じゃない。恐れるべき存在としてでも、ない」
言葉を探すように、一瞬間を置く。
「……ただ、真っ直ぐに、見ていた」
美邪流は柔らかく微笑む。
「だったら……もしかしたら、お兄様が思ってるほど、一人じゃないのかもよ?」
怜治はすぐには答えない。
「……それとも、ただ探りを入れられてるだけかもな」
怜治は静かにため息をつく。
「……まあな」
再びの沈黙。
「……どっちでも、いいけど」
そして、少し間を置いて——
「……だが、もし本当にそうなら……これは、案外……悪くないかもな」
美邪流がはっと顔を上げる。
驚いたのは、言葉の内容じゃない。
その声のトーンだった。
「わかった」と彼女は小さく言う。「私、先に寝るね。明日は体力測定だもん。あんまり無茶しちゃだめだよ」
「……ああ」
照明が落とされる。
部屋は闇に包まれる。
だが暗闇の中で——
怜治はまだ目を閉じていなかった。
(心の中:
……悪くない、か。)
その言葉が、どこか自分のものではないように感じる。
朝・桜神学園
新しい一日。
空は晴れ渡り、
生徒たちの熱気も高まっている。
怜治のクラス
隣には帝我が、いつものように座っていた。
「蓮! 今日は体力測定だぞ! 俺がしっかりサポートしてやるから! 怪我すんなよ!」
怜治は彼を一瞥する。
(心の中:
この生物は……なぜ、物を殴るという行為だけで、そこまで誇らしげになれるのだ?)
「……あ」
適当な相槌。
だが帝我はそれで満足し、
「よし! まずは基本のフォームからだ!」
(心の中:
人間の喜びというものは、実に単純で安価だな。)
だが不思議なことに——
怜治は彼から離れようとはしなかった。
美邪流のクラス
こちらは全く雰囲気が違う。
彼女が教室に入るなり、
わっと周りが騒がしくなる。
「みじゃるんちゃん! 髪型、超かわいい!」
「この後の昼休み、一緒に食べようよ!」
「好きな音楽とかある?」
美邪流は穏やかに微笑みながら応える。
落ち着いていて、
決して嫌味がない。
やがて彼女は、奈羅と圭という二人の女子生徒の元に腰を下ろした。
大人しく、騒がしくない。
とても、似合っている。
会話は軽やかで、
自然に流れていく。
生まれて初めて——
美邪流が本当の意味で「居場所」を見つけたように見えた。
体力測定会場
広いグラウンド。
三つの打撃用人形が並んでいる。
1.赤い人形
2.黒い人形
3.鉄製人形
いよいよ怜治の順番が来た。
彼は赤い人形の前に立つ。
(心の中:
力を抑えろ。
制御しろ。
破壊するな。)
拳が振り下ろされる。
バゴォンッ!!
赤い人形は……見事に木端微塵に砕け散った。
沈黙。
先生が瞬きをする。
「……天性の才能?」
怜治:
「……あ」
鉄製人形
さすがにまずいと思い、
彼は深く息を吸う。
力を……限界まで落とす。
そして一撃。
バンッ!
次の瞬間——
「いてっ!! めっちゃ痛いんだけどー!!」
大げさなまでのリアクション。
周囲の生徒たちはどっと笑う。
「おいおい、さっきのはただの運だったのかよ!」
「ハハ! 一瞬でバレたな!」
「見た目だけかよ!」
怜治はうなだれ、
痛がるフリを続ける。
(心の中:
……なんという疲労感だ。)
遠くの方で——
美邪流がおにぎりを頬張りながら、ため息をついていた。
「はあ……お兄様、楽しんでるわね……」
怜治は一刻も早くこの場から消え去りたかった。
能登木高校・澪
静かな教室。
先生の説明を聞いてはいるが、
黒崎澪はノートを取る手を止めていた。
彼女の思考は——
別の場所にあった。
コンビニ。
あの短い会話が、頭の中でリピートされる。
「……遺伝だ」
彼女はノートを見つめる。
(心の中:
嘘だ。)
それは憶測なんかじゃない。
観察の結果だ。
「……また会ったら……」
手が止まる。
「……何を聞けばいい?」
ふと、別の顔が浮かんだ。
あの女の子。
(美邪流)
「……あの人は、誰?」
友達?
家族?
それとも——
澪はパタリとノートを閉じる。
「……どうでもいい」
だが、心の奥底にはしっかりと、その存在を刻み込んでいた。
上級生エリア・Bクラス
測定が終わり、
怜治と美邪流が通りかかった。
アリーナの中央には——
由香がいた。
手にした木剣が、淡く光を帯びている。
動きは滑らかで、
無駄がなく、
研ぎ澄まされている。
発動・技:《光の精心》
一閃。
カァンッ!!
相手の剣が弾き飛ばされる。
沈黙。
勝負あり。
美邪流が目を輝かせる。
「わぁ……すっごくカッコいい!!」
怜治もゆっくりと拍手を送る。
表情は相変わらず淡々としているが——
その実、認めている。
由香が二人に気づき、
少しだけ頬を赤らめ、
柔らかく微笑んだ。
その瞬間だけは——
何もかもが、ありふれた日常に思えた。
全ての外側
遥か彼方。
空間を超え、
時間を超え、
概念という概念すらも超えた先。
何もない空間に、二つの存在が佇んでいた。
静かに、
この世界を見下ろしながら。
オメガ・アルファ。
ウルミナ=フェロン。
「《原初の虚無》……消滅したか」
沈黙。
「……好機到来」
彼らの視線が変わる。
「——開始する」
音もなく。
痕跡もなく。
人間の世界など比べ物にならない、
途方もない何かが——
動き始めていた。
エピローグ
同じ空の下。
怜治は人々の間に立ち、
学び、
真似をし、
観察し続けている。
だが彼自身、気づいていない事実があった。
彼を見つめているのは、
澪一人だけではないこと。
彼の存在が影響を与えているのは、
この世界だけではないこと。
そして今——
「好奇心」という名の種が芽吹き始めた。
それは澪だけのものではなく。
さらに奥深く、
遥かに危険な存在の心にも——
確かに根を張り始めていた。




