第17話:好奇心
翌日は……いつも通りの一日だった。
あまりにも、ありきたりな一日。
授業は淡々と進み、訓練も特に目立った出来事もなく終わる。昼休みだって、ただの時間つぶしに過ぎなかった。
怜治はただ一つのルールに従い、すべてをこなしていた。
抑えること。
力も。
存在そのものも。
自分自身さえも。
隣を歩く美邪流は、休むことなく喋り続けている。
「お兄様、今夜の訓練忘れないでね! 新しいコンビネーションを試してるのよ——」
「ああ、わかった」
怜治の返事は短い。
だが、ちゃんと聞いてはいる。
いつだって、そうだ。
二人は桜神学園の門を出る。
校庭はまだ賑やかで、何人かの生徒たちが怜治の方をチラチラと見てくる。昨日と同じ顔ぶれだ。
ひそひそ話をする者。
ニヤニヤと笑う者。
「昨日のアイツだろ?」
怜治はただ通り過ぎるだけ。
怒ることもなければ、
気にすることもない。
まるで、そんなものは最初から存在しないかのように。
また、あの視線
道路の向かい側。
一人の少女が、ただ佇んでいた。
長い黒髪。
違う学校の制服。
落ち着いた佇まい。
黒崎澪だ。
彼女は近づいてくるわけでも、声をかけるわけでもない。
ただ……見ている。
怜治はすぐに気づいた。
視線が交わる。
ドラマチックな展開もなければ、
感情が高ぶることもない。
ただ二人が、お互いの存在を確認しただけ。
「——ああ、いたのか」
怜治はわずかに眉を上げる。
(心の中:
また、彼女か。)
美邪流もそちらに目を向けた。
「あれ? お兄様……昨日の人だよね?」
怜治はすぐには答えない。
美邪流は気軽に手を振る。
「こんにちはー!」
だが澪は応えない。
ただ、軽く頭を下げただけ。
それは普通の挨拶というよりは……
何かを心の中で計っているような、そんな仕草だった。
そして——
彼女はくるりと向きを変え、
歩き出した。
一言も発さずに。
怜治は肩をすくめる。
「ああいうタイプか、話しかける気はないらしい」
美邪流は澪の去った方向を見つめる。
「……うん。でも……なんか変」
「何が?」
「目線が」
怜治は黙った。
自分も、同じものを感じていたからだ。
それは恐れでもなければ、
憧れでもない。
もっと単純で……
そして、もっと深い何か。
「……知りたいんだな」
静かな夜のバス停
街灯がぼんやりと照らす中。
黒崎澪は古びたバス停に一人で座っていた。
膝の上には、薄いノート。
彼女はペンを走らせる。
怜治 瞳が赤い。
普通じゃない。
カラコンでもない。
もっと調べる。
手が止まる。
書いた文字を見つめ、
そして、小さく一行だけ書き加えた。
どうして、私は知りたいんだろう?
沈黙。
答えは返ってこない。
だけど、その疑問だけは——
消えることはなかった。
コンビニの夜
怜治が寮を出た。
理由は単純明快。
腹が減ったからだ。
生きるための必要に駆られた、というよりは……
一種の「実験」、試してみたいという欲求。
(心の中:
味、か。
人間が食べる理由って……これなのか?)
確信はない。
だが、とにかく歩く。
街角のコンビニはまだ明かりがついていた。
ガラス扉が開く。
ピンポーン
店内は静かだ。
白い照明。
エアコンの低い音。
ラジオからは、どこかで聞いたような古い曲が流れている。
怜治は鮭おにぎりと、冷たい飲み物を一つ手に取る。
しばらくそれを見つめる。
(心の中:
単純なものだ。)
……だが、悪くない。
レジに向かおうとした——
その時。
すでにそこには、誰かが立っていた。
澪だ。
彼女は飲み物の棚の前で、
ココアを手にしている。
夜風で少しだけ乱れた髪。
瞳は相変わらず——
静かだが、決して空っぽではない。
二人は再び、視線を合わせた。
怜治は手にしたおにぎりを、少しだけ持ち上げて見せる。
「俺は……ただの通りすがりだ」
わざわざ言う必要もないセリフだ。
澪は小さく頷く。
「……知ってる」
沈黙。
だが、気まずい沈黙ではない。
どちらかと言えば、人付き合いが不器用な二人が、
無理に話そうともせず、かといってすぐに立ち去ろうともしない、そんな空気。
怜治が口を開いた。
「昨日……俺のこと、見てただろ」
澪の体がわずかに硬直する。
だが、目を逸らすことはしない。
「……気になったから」
真っ直ぐな答えだ。
「何が?」
「……目」
怜治は瞬きする。
(心の中:
ああ、それか。)
本当のことを言おうかと、一瞬思った。
だが——
「……遺伝だ」
即答。
単純明快。
そして……手抜きの嘘。
澪はゆっくりと頷いた。
信じてはいない様子だったが、
だからといって問い詰めることもしない。
彼女はその答えを、とりあえず受け取っておいた。
二人並んでレジに進む。
店員はあくびをしながら、二人をチラリと見た。
見た目は普通の若い男女。
だけど、どこか「普通じゃない」空気が漂っている。
会計が終わり、店を出る。
夜の空気は、先ほどよりも少し冷たくなっていた。
澪が先に口を開いた。
「……もしまた、聞いたら……」
言葉を一度切る。
「……今度は、ちゃんと答えてくれる?」
怜治はすぐには彼女を見ない。
空を見上げる。
何もない、ただ広い空。
「……内容による」
それは拒絶でもなければ、
承諾でもない。
澪は再び頷く。
「……わかった」
彼女は背中を向け、
歩き出す。
無理強いはしない。
怜治はその背中を見送る。
ゆっくりとした足取り。
迷いはないようだが、
かといって確信があるわけでもない。
生まれて初めて——
何かが、少しだけ違うように感じた。
(心の中:
この人間……)
考えを中断する。
適切な言葉を探す。
……見つからない。
「……どういうことだ?」
夜風が通り抜ける。
街灯の明かりが、かすかに揺れた。
そして、二人は気づいていないが
小さな関係性が、ここに生まれ始めていた。
大きな運命の導きなどではなく。
力や権威によるものでもない。
ただ、一つの単純な感情
「興味」 だけをきっかけに。
怜治のような存在にとって、
それはこの世で最も——
奇妙な感情なのかもしれなかった。




