懺悔
三
「ごめんなさい」
エディニィは率直に謝った。
ダリーが胡乱な顔つきで振り返る。
夕食も済み、キルヴァはセグランと額を詰めて話し合いに講じている。キルヴァの警護にはアズガルとカズスが就いているので、ダリー、ミシカ、クレイ、エディニィは今時分非番だ。ステラの姿が見えないのは常のことで、おそらく外で見張り番を務めているのだろう。
ダリーは訓練場の片隅で黙々と剣を振るっていた。無心に鍛錬に努める姿はなじみのものだが、しかし今夜のダリーの剣筋は一際冴えて、荒々しい。
エディニィが敢えて足音も気配も消さずに近づくと、ピリピリとした空気の熱が夜気から伝わってきた。
「なにを謝るんだ?」
ダリーは見えない敵との戦いを再開した。数々の難局を潜り抜けてきた大剣を自在に操り、でかい図体に見合わぬ俊敏な動きを見せる。
仄かな月光に照らされるその表情は苦悩に沈み、眼が悲しみに溺れている。
エディニィは邪魔にならない距離で足を止め、俯いて自分の肘を掴んだ。
「三年前、あんたの身内と思える人間に会っておきながら、その事実を伏せていたことよ」
あれはスザン国との開戦を間近に控えた単独潜入調査のとき、アルマディオ・ベルシアーノと名乗る男と邂逅した。風の天人の襲撃に遭い、命を助けられたのだ。その際、相手が負傷し見捨てるわけにもいかず看病を務め、幸いにも一命をとりとめることができた。再会を願う男から預けられた指輪を報告共々キルヴァに託し、男の行方を追ったものの杳として知れぬまま時が経ち――今日を迎えた。
そう説明すると、ダリーは剣を下ろした。剣先を地面に突き立て、柄の上に両手を重ねる。
沈黙が続いた。
葛藤があるのだろう。エディニィに向けられた背は僅かに震え、嘆きもあらわに痛ましい。
「王子を責めないで」
エディニィはそっと言った。
「あのとき、不確かな情報を与えてあんたを困惑させるわけにはいかなかったの。戦況は刻々と変化していたし、王子の周辺にどんな小さな隙もつくってはいけなかった。万全の状態のあんたが必要だったのよ」
「わかってる」
静かなダリーの返答に胸を突かれる。声に恨みつらみはなく、本当に納得しているのだと理解できた。だがそれだけにいっそういたたまれない気持ちになる。
エディニィは当時のことを思い出しながら呟いた。
「……それでも、まだしも彼が敵ではない確証があればあんたにも一言告げることもできたのかもしれないのだけれど。でも……」
「でも、なんだ?」
ダリーが単調に問う。
エディニィは続けた。
「彼は、普通ではなかった」
できるならばこんなこと教えたくなかったが、ゆっくりと肩越しに視線を注いでくるダリーの無言の問いを無視など出来ない。
「まだ十七歳だと言っていた彼の身体には無数の傷があって……古い傷から新しい傷まで、顔以外の全身に。だけど拷問傷じゃない……あれは訓練と戦場で負った手傷の痕よ。痛みにも慣れていたし、熱が引いて目覚めてすぐ私のことを口説くふりをして素姓に探りを入れてくるぐらい頭の回転も速かった。どうしてあの指輪を私に預けたのか、それだけは疑問なのだけれど……」
怪我さえしていなければ捕縛して強引に連行することもできた。だがあれだけの重傷では歩くことすら困難だっただろう。
エディニィには与えられた任務をないがしろにしてまで、彼にかまう時間的余裕がなかったのだ。
「そして王子のご命令で彼を探索した際には、既に姿をくらましたあとだった……」
一般人であれば身を隠す必要もないだろう。隠れるつもりがなければ足取りなど簡単に追えたはずなのだ。任務にあたったのはキルヴァ直属の精鋭部隊の兵なのだから。彼らの追跡すら及ばなかったというのは、つまり相手も一筋縄ではいかない素姓の者だという証明に他ならない。
「状況がはっきりするまであんたに黙っているように進言したのは、私よ」
エディニィは言った。
「ろくな情報もないまま踊らされて、右往左往するあんたを見たくなかったの。あんたはきっと、この話を聞いたら部隊を飛び出していた。私たちがどんなに引き止めても、自分で彼を探しに行くと言って聞かなかったでしょうね。それこそ、敵国であれ敵陣であれ、かまわずに突進して行ったと思うわ。息子会いたさにね、違う?」
「……そう、かもしれん」
あっさりと認めたダリーがなんだか癪で、エディニィは叱咤した。
「そんなこと、許すはずがないでしょう。王子は許すかもしれない。でも私は許さない。だって誰のためにもならないもの。あんたが無茶をしてあんたにもしもの事があれば王子は傷つくでしょうし、後悔するでしょう。開戦が目前に迫り――あんたの行動によっては王子に危険が及び、国益も損なうことにすらなりかねない。だから王子と相談して、あんたには内緒で彼を探し、もし見つかったらそのときは彼共々指輪も手渡そうと決めていたのよ」
言い訳にすぎないことは百も承知で、エディニィは最後まで打ち明けた。
ダリーは眼を瞑ってじっと話を聞いている。
「……あんたの気持ちを考えなかったわけじゃない。でも二の次にしたのは確かよ。私は王子のお立場を優先した。だから、悪いのは私。あんたが奥さんの死に目に会えなかったのは私のせいよ。どう償える?」
するとダリーは苦笑した。
のろのろと重い口を開く。
「おまえは悪くないさ。俺でもおまえの立場だったら同じように黙っていただろうな。王子の不利益に連なることは問答無用で排除する、それが俺たち近衛の務めだからな。むしろ、俺のことで忙しい王子に手間暇かけさせて悪かったと思ってる。エディニィ、おまえにも嫌な思いをさせたな。すまん」
「ちょっと、謝らないでよ」
「俺が堪らないのは」
ダリーは大剣を肩に担いで夜空を見上げた。今日は風もなく、雲もない。澄み渡った闇夜に月と星が競うように鮮やかに瞬いている。
ひんやりとした空気を吸い込み、ダリーはふーっと深く吐息した。
「あいつが――妻が……イヴリンが俺の知らないところで本当は生きていて、なのに俺はそれを知らないでのうのうと暮らしていて、挙句、死なれたって事実と、それから自分の子供に――アルマに生きながら決別されるくらい恨まれているってことだ」
記憶を辿れば、妻と子の死はいまも鮮明に甦る。
炎に包まれ、見る影もなく黒い灰の塊と化していた二人。傍で絶叫する自分。あのときの身を裂くような慟哭はどれほど時が経とうとも忘れられない。
「……死んだと、思っていた。疑いもしなかった……生きていた、なんて。信じられないくらいだ……アルマに会わなければ、到底、信じがたい……」
十八年ぶりに再会した息子は自分の若い頃にそっくりだった。
まぎれもなく我が子だと言えるほど顔も声も似ていて、その上、眼元と口元のあたりに亡き妻の面影も残っていた。
心臓が音を立てて軋む。
ダリーは「まいった」と呻いた。
「俺は二度も妻と死に別れたんだな……」
ぼろ雑巾のように死んだとアルマが言っていたことを思い出し、ダリーは悲しくなった。
「アルダ・ヴィラ・セラ・ローチェ……」
妻の遺言を口にするとどうしようもなく空虚な心地になった。
俄かに遠い眼をしたダリーの傍でエディニィはどんな態度をとったものかと困った。慰めるべきなのか、寄り添うべきなのか、それとも傍を離れるべきなのか、判断がつかずにいた。
そこへミシカがやってきた。
エディニィが助けを求める眼を向けると、ミシカは無言で首肯し、顎をしゃくった。
気懸りそうな陰気な顔のままエディニィが去り、二人きりになってミシカはダリーに差し出した。
「ほら、気付け薬だ」
そう言ってミシカは手にしていた酒瓶をダリーに握らせた。
「……とても酔う気になれん」
「飲んでも酔えんよ。ただ身体は温まる。だから飲め」
勧められるままダリーが酒を煽り、酒瓶をミシカに戻す。ミシカも瓶に口をつけ、一口含むとまたダリーの手に押しつける。
長く沈黙したあと、ミシカは夜の虚空を眺めながら呟いた。
「スザン戦が始まる前に、カーチスと少し話をしてな」
「カーチス? ……スザン戦で戦死した遊撃隊隊長のカーチス・ゴートか」
「奴に、戦が終わったら嫁になれと言われた」
「――はあ!? よ、嫁!?」
「冗談だろうと言ったら、本気だと返された。私はそれまでこういった色恋沙汰に関しては無縁だったものだから、えらく動転してしまってな……なにも言えぬまま出陣して、まともに検討する前にカーチスが死んでしまった」
「……」
「それであとから気づいたのだが、私はどうやら奴の求婚が嬉しかったらしい」
「……」
「カーチスが死ぬなんて、思わなかった。あれは強かな男だから、そう簡単にくたばるはずがないと高を括っていた」
ミシカは酒瓶を揺らした。
「もう二度と会えないなどと考えもしなかった」
ダリーはミシカの手から酒瓶を取り、最後の一滴まで飲み干した。
「人は、脆いな」
「ミシカ」
「運命は残酷だ。我々の思惑など軽々と捻り潰し、思いもよらぬ現実を突きつける」
ミシカは悲しみに満ちた眼でダリーを見つめた。
「だからこそ、その都度、後悔の少ない選択をする必要がある。悲しみに眼を曇らすな。よく考えて決断しろ。そして行動する前に私たちに相談してくれ。悪いようにはしないから」
「ミシカ……」
ミシカはそう穏やかに告げて、ダリーに背を向けた。
「……死んだものと諦めていた人間が生きていたんだ。なにもせずに手をこまねいていられるはずもない。その心情は理解できる。だけど、頼むから早まらないでくれ」
「ああ、わかった」
「酒が切れる前に部屋に戻れよ、風邪ひくぞ。私は先に戻ってる」
無造作に片手を上げて去っていくミシカを見送り、ダリーは一人きりで物思いに耽った。
ちょうどその頃、キルヴァはセグランにある相談を持ちかけていた。