4 反省文と甘い誘惑
「……というわけで、本日は魔王城の予算から金貨袋ひとつ分を、人間界の食堂の修繕費として計上いたします」
「……は、はい……」
魔王城の執務室。
マーガレットの氷のように冷ややかな報告を受け、財務を担当する上級魔族はガタガタと震えながら書類に判を押していた。
その横で、豪華な装飾が施された応接テーブルに突っ伏している少女がひとり。
世界の頂点に立つ魔王、ルチア・ベル・ゼブルである。
「うぅ……マーガレットぉ……我が腕が、腕がもう限界を迎えておるのです……」
ルチアは流れるような銀髪をテーブルに散らし、泣きそうな顔で緋色の瞳をマーガレットに向けた。
その細い手には羊皮紙と羽ペンが握られている。
羊皮紙の上には、たどたどしい文字で『はんせいふん まおうルチア』と書かれていた。
「自業自得ですわ、ルチア様。無断で人間界へ降り立ち、挙句の果てにいくら害虫相手とはいえ、街中で極大魔法を放ってお店を損壊させたのですから」
マーガレットは眼鏡のつるをクイと上げ、容赦なく冷酷な声で言い放った。
「羊皮紙三枚分を書き終えるまで、本日の夕食は抜きです。……あ、それと、城の調理場が用意していた夕食の焼き魚は、私が美味しくいただいておきましたので」
「なぁにぃぃぃっっ!?」
ルチアはガバッと跳ね起きた。
「我が楽しみにしていた焼き魚を……!? 焼き魚はそれとして、お腹の別腹に納める予定だったのに……!」
「トンテキを特盛りで完食しておいて何が別腹ですか! ほら、手が止まっていますよ。早くお書きなさい」
「うぐぐ……マーガレットの鬼、悪魔、苦労人……っ!」
半べそをかきながら、ルチアは再び羽ペンを走らせ始めた。
カリカリ、カリカリと執務室に虚しい音が響く。
お肉で満たされたはずの胃袋は幸せに満ちていたが、頭と手首は限界を迎えていた。
(……でも、あのトンテキは本当に美味しかったなぁ)
ペンを動かしながら、ルチアの脳裏には先ほどの食感が蘇る。
(歯がスッと入る柔らかいお肉……ニンニクとバターと醤油の香ばしいタレ……そして、そのタレが染み込んだ真っ白なご飯……。ふふ、反省文なんて書かされてるけど、行ったことに後悔はないわ……!)
ルチアが一人で思い出し笑いを浮かべ、うっとりと頬を緩めていると——。
コンコン、と軽やかなノックの音が響き、執務室の扉が開いた。
「マーガレット様、ルチア様。人間界の諜報部隊より、定期報告が届いております」
入ってきたのは、俊敏そうな豹の耳を生やした隠密の魔族だった。
ルチアは「助かった……!」と言わんばかりに羽ペンを置き、パッと身を乗り出した。
「報告ご苦労様! どんな面白い……じゃなかった、緊急の報告かしら!?」
「あ、はい……ええと」
隠密はマーガレットの痛烈な視線を浴びて冷や汗を流しながら、報告書を開いた。
「先ほど、ルチア様がルティナスの町で退治された無法者集団『黒鉄の爪』の件ですが。彼らのバックには、隣国の港町『ポルト・グランデ』を拠点とする巨大な密輸シンジケートが絡んでいる模様です」
「港町……?」
ルチアの耳がぴくっと跳ねた。
「はい。その港町ポルト・グランデでは、近頃あらゆる物資や食材の価格が高騰しておりまして……特に、海を越えて運ばれてくる『極上のスパイス』や『新鮮な海の幸』が、闇ルートで占有されているとのことです」
隠密が何気なく口にしたその言葉。
『極上のスパイス』
『新鮮な海の幸』
その二つの単語が弾けた瞬間、ルチアの緋色の瞳に怪しい光が宿った。
(スパイス……海の幸……! それって……取れたての魚介を、香辛料とオイルでじっくり煮込んだスープや、ピリッと辛いシーフードカレー的なものが食べられるってこと……!?)
ゴクリ、とルチアの喉が鳴った。
「……マーガレット」
ルチアはおっとりとした、しかしどこか迫力のある声で言った。
「その『ポルト・グランデ』という街の民は、きっと困っているに違いないわ」
「は?」
「世界を統べる魔王として、密輸などという卑劣な行為で見知らぬ街の平和が脅かされるのを、黙って見過ごすわけにはいかないわ。……我、今すぐその港町へ世直しに行かなきゃいけないと思うの!」
「……ルチア様」
マーガレットは深くため息をつき、冷ややかな眼差しでルチアを見つめた。
「目当ては海の幸でしょう?」
「ち、違うわよ!? 我は純粋に、世界平和のために……!」
「目が泳いでいます。だいたい、反省文がまだ一枚目も終わっていませんわ」
「ううっ……!」
図星を突かれ、ルチアは再び突っ伏した。
しかし、一度火がついた美食への探求心は、もはや反省文ごときでは消し去ることはできない。
港町の風に吹かれながら食べる、プリプリの海鮮料理……想像しただけで、口の中に唾液が溢れてくる。
(待っていてね、ポルト・グランデの海の幸たち……! 我が絶対に、あなたたちを美味しく救い出してあげるから……!)
ルチアは心の中で強く固く誓いながら、港町の美味しいご飯のために猛烈な勢いで反省文を書き始めるのだった。




