2 看板料理と不穏な影
交易都市『ルティナス』のメインストリートから一本外れた、少し古びた路地裏。
そこには、赤煉瓦の壁から香ばしいニンニクと甘辛い醤油、そして炭火で炙られた脂の匂いが漂う一軒の店があった。
木製の看板には、骨付き肉の絵と共に『大衆肉食堂 豚の城』と力強く刻まれている。
「……ここだわ」
ルチアはぴたりと足を止め、鼻をくんくんと鳴らした。
流れるような銀髪を揺らし、夕焼け色の緋色の瞳をキラキラと輝かせる。
「この匂い……肉の旨味と、香辛料と、タレの焦げた香りが絶妙に混ざり合っているの。我が求めていたのは看板の通り……まさにこれ……!」
「ルチア様、立ち止まって鼻を鳴らさないでください。魔王としての威厳が台無しですわよ」
後ろから追いついたマーガレットが、眼鏡のつるを指先でクイと上げながら溜め息をつく。
黒髪の夜会巻きに仕仕立ての良い漆黒ドレスを纏った彼女は、路地裏の庶民的な店の前にはあまりにもそぐわない高貴さを放っていた。
「さあ、入りましょうマーガレット。我が胃袋が歓喜の歌をうたっているの」
「まったく……お肉を食べたら、すぐに魔王城へ戻ると約束しましたからね」
カランコロン、とドアベルを鳴らして店に入ると、店内は満席に近い賑わいを見せていた。
炭火の煙がうっすらと立ち込め、威勢の良い店主の声と、客たちのジョッキを合わせる音が響いている。
「いらっしゃい! 空いてるカウンター席へどうぞ!」
腕っ節の強そうな店主が声をかける。
ルチアとマーガレットが並んで木製のカウンター席に腰掛けようとすると、周囲の男たちの視線が一斉に集まった。
(うわ、なんだあの二人組……めちゃくちゃ綺麗だな……)
(貴族の令嬢と付き人か? こんな汚い大衆食堂に来るような器量じゃないぞ……)
ざわつく店内を一切気にする様子もなく、ルチアはおっとりとした手つきで壁に掛けられた木札のメニューを見上げた。
「ん〜……『厚切りトンテキ定食(ニンニクバター醤油)』……『骨付き炙りポークステーキ』……どれも美味しそうねぇ……」
「ルチア様、あまりメニューをジロジロ見つめないの。品がありませんわ」
「マーガレット、我が決めたわ。この『厚切りトンテキ定食』にするの。ご飯は大盛りで……ううん、特盛りで!」
「と、特盛り!? ルチア様、いくらなんでもそんな量を淑女が食べるなんて……!」
「だって、美味しいものはたくさん食べたいんだもの」
ふにゃりと愛らしく微笑むルチアに、マーガレットは「はぁ……」と額を押さえた。
「すみません、大将。そのトンテキ定食を特盛りで一つ。私にはお冷やをいただけますか」
「はいよ! トンテキ特盛り一丁!」
店主が豪快に返事をし、大きな豚ロースの塊肉を包丁で分厚く切り分ける。
ジューッ! という激しい音と共に、鉄板の上で肉が躍り出た。香ばしい煙が立ち込め、ニンニクとバターの甘い香りが一気に広がっていく。
ルチアはカウンターに顎を乗せる勢いで、焼き上がる肉をじっと見つめていた。その姿はまるで、ご飯を待つ子猫のようである。
(来る……我が求めていた肉の山が、もうすぐやって来る……!)
「はいよ、お待たせ! 特盛りトンテキ定食だ!」
目の前に置かれたのは、厚さ三センチはあろうかという巨大な豚肉。濃厚な褐色ダレが絡み、溶けたバターと黄金色のフライドニンニクが惜しげもなく乗っている。さらにその横には、漫画のような山盛りの白飯。
ルチアの緋色の瞳が、カッと見開かれた。
(素晴らしい……! これぞ肉の山脈! いただきます!)
木箸を持ち、一切れの肉を持ち上げる。ずっしりとした重み。
口へ運んだ、その瞬間——。
ルチアの背筋がピシリと直立し、全身が打ち震えた。
(んふぅぅぅぅ……っっっ!!)
噛んだ瞬間に弾ける肉汁。歯が吸い込まれるような柔らかさと、ジュワッと溢れる脂の甘み。そこに容赦なく押し寄せるニンニクバター醤油の圧倒的なコク!
(なんなんだこの破壊力は……! 肉の旨味が口の中で暴れ回っているの……! クッ、負けそう……この美味の暴力に、我がひれ伏してしまいそう……!)
ハッと我に返り、ルチアは特盛りのご飯に手を伸ばす。
タレが滴る肉をご飯の上にワンバウンドさせ、かき込むように口へ運んだ。
(くぅぅぅ……っ! やっぱり白飯! 肉とタレの旨味をすべて受け止める最高の相棒……! 完璧すぎるカルテットだわ! 箸が、箸が止まらない……!)
おっとりした普段の雰囲気からは想像もつかない勢いで、無我夢中に肉と米を交互に口へ運ぶルチア。美味しさのあまり、座ったまま肩を上下に揺らし、うっとりと頬を染めている。
「ルチア様! お行儀! お行儀が落ち着きなさすぎますわ! 体を揺らさないでください!」
マーガレットが慌てて小声で注意するが、ルチアの耳には届いていない。
「んむ……マーガレット、これ……とっても美味しいよぉ……」
「もう……一口飲み切ってから喋りなさいな……」
苦笑しながらも、美味しそうに食べるルチアの姿にマーガレットの目元が少しだけ柔らかくなる。
——しかし、その平穏な時間は長くは続かなかった。
ガラガラガラッ!
店の扉が乱暴に開け放たれ、不穏な足音が店内に響いた。
「おい大将! 今月の『ショバ代』を払ってもらおうか!」
現れたのは、身の丈を超える巨大な金棒や斧を担いだ、強面の大柄な男たち——この街の裏社会を仕切る無法者集団『黒鉄の爪』の構成員たちだった。
店内の客たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように店外へ逃げ出していく。
「ひぃっ……! こ、今月の分は先週払ったばかりじゃないか!」
店主が震えながら叫ぶが、リーダー格のオーガ族の男が鼻で笑った。
「ハッ! 今日から値上げなんだよ! 払えねぇってなら……この店、叩き壊して——ん?」
オーガの目が、カウンターの隅で静かに肉を食み続ける銀髪の少女へと留まった。
「ほう……なんだその上玉は。ヒッヒッヒ、金がねぇならその女を渡してもらうぜ。人間界の市場で売れば大金に——」
オーガの手が、ルチアの細い肩に伸びようとした——その時。
カチャン。
箸が静かに置かれた。
ルチアはゆっくりと顔を上げた。
その緋色の瞳からは、先ほどまでの「おっとりした食いしん坊」の気配が完全に消え去っていた。
そこに宿っていたのは、絶対的な上位者が下等生物を見下す、冷酷で圧倒的な「お怒り」の眼光。
「ねぇ……」
ルチアの鈴を転がすような声が、静まり返った店内に低く響く。
「我の……トンテキに、煙と砂がかかったんだけど……?」




