1 魔王城脱出と旅の始まり
天を突き刺すように聳え立つ黒結晶の城砦——魔王城。
その最深部にある玉座の間は、常に緊迫した空気に包まれている……はずであった。
「……いない」
魔王城の総責任者であり、幼少期から魔王の世話を担当してきた女性魔族マーガレットは、もぬけの殻となった玉座を前に、額にピキピキと青筋を立てていた。
彼女は、黒漆のような艶やかな髪を夜会巻きにまとめ、冷徹で知的な印象を与える眼鏡をかけた、すらりと背の高い美女である。深紅の口紅が映える端正な顔立ちと、仕立ての良い漆黒のドレスに包まれた隙のない立ち姿は、一見すると冷徹な魔導士そのものだ。
しかし、その鋭い眼鏡の奥の瞳は、今や怒りと頭痛で揺れていた。
豪華絢爛な絨毯の上には、一枚の紙きれがポツンと残されている。
『ちょっと人間界の市場に行ってきます。晩ごはんまでには帰れたら帰ります。 ルチア』
「帰れたら帰ります、ではありません!!! そもそも魔王様が単身で人間界へ足を運ぶなど、前代未聞ですわよ!!」
マーガレットの怒声が玉座の間に響き渡り、控えていた上級魔族たちが一斉にビクッと肩を跳ねさせた。
「だ、マーガレット様……ルチア様の魔力反応は既に魔界の結界を越え、人間界の南郊街に向かっております……」
「はあぁぁ……。あの子は昔から、一度食い気に火がつくと人の話を聞かないのですから……!」
マーガレットは深い溜め息を吐くと、漆黒のドレスの裾をエレガントに翻した。
「全軍に通達。私がいなくても城の防衛を怠らぬこと。……私は、あの食いしん坊の姫様を回収して参ります」
その頃、人間界の南部に位置する交易都市『ルティナス』。
活気に溢れる大通りの人混みの中に、一際目を引く一人の少女が立っていた。
流れるような銀髪は、太陽の光を浴びてチラチラと妖艶な煌めきを放っている。透き通るような白銀の肌、そして夕焼けをそのまま閉じ込めたかのような深みのある緋色の瞳。
身に纏う黒を基調とした上質なドレスは、彼女の細身でありながらもどこか魅惑的なシルエットを美しく引き立てていた。
すれ違う旅人や冒険者、商人が思わず足を止め、息を呑んで彼女を見つめる。
(うわ……なんだあの美少女……)
(人間じゃないみたいだ……貴族の令嬢か?)
通りからの視線を一身に浴びながら、少女——魔王ルチア・ベル・ゼブルは、気にした様子もなく小さなお口を「ほわぁ」と開けて欠伸をしていた。
(……ふぅ。魔王城の転移陣から少し離れたところに跳んじゃったから、歩くのに疲れちゃったなぁ)
ルチアはおっとりとした足取りで歩きながら、ペコペコに凹んだお腹を細い手で撫でた。
(今日はお肉の気分なの。それも、ただのお肉じゃなくて……こう、ジューシーで、タレが甘辛くて、ご飯が止まらなくなるような……)
ルチアの頭の中は、今や食べ物のことしか存在しない。
世界最強の魔力を持ち、かつて古代竜をも一瞥で屈服させた「絶望の銀髪公」の思考回路は、あまりにも平和であった。
「あ、あの……お嬢さん?」
ふと、声をかけてくる男たちがいた。
がっしりとした鎧を身に纏った冒険者風の男が二人。ギラついた目でルチアの美貌を見下ろしている。
「こんなところで一人? もし良かったら、俺たちといい店に行かないか? 旨い酒と肉を奢ってやるぜ」
ルチアは緋色の瞳をパチクリとさせて、おっとりとした声で尋ねた。
「……ほんと? 肉、奢ってくれるの……?」
「おう! もちろんだとも! (へへっ、こんな上玉、騙して売り飛ばせば大金になるぜ……)」
男たちが下心の混じった笑みを浮かべ、ルチアの細い腕を掴もうとした——その瞬間。
「そこまでです、薄汚い人間ども」
鋭い空間の裂け目と共に現れたのは、眼鏡をかけた高貴でスタイル抜群の美女——マーガレットだった。氷のように冷たい視線で男たちを見下ろしている。
「ヒッ……!? く、空間魔法……!?」
男たちが驚愕する間もなく、マーガレットが細い指先を軽く一振りすると、圧倒的な威圧の波動が男たちを襲った。
男たちは悲鳴を上げる間もなく白目を剥いて、その場に崩れ落ちた。
「ん……あ、マーガレット。追いつくの早かったねぇ」
ルチアは全く動じた様子もなく、ふにゃりと頬を緩めて微笑んだ。
「早かったねぇ、ではありません! ルチア様! またこうして勝手に抜け出して……! どれだけ城の者が混乱したと思っているのですか!」
きりっとした眉を吊り上げ、眼鏡の奥からお小言を飛ばすマーガレット。
「だってね……マーガレット。城の今日の夜ご飯、焼き魚だったでしょ? 我、今日はお肉が食べたかったの……」
「だからと言って、人間界に無断で降りて良い理由にはなりません! 帰りましょう、今すぐに!」
マーガレットがルチアの手首を掴んで引き戻そうとする。
しかし、ルチアはその場にペタリと座り込み、上目遣いでマーガレットを見つめた。
「やだぁ……。お肉食べるまで帰らない……。我、お腹と背中がくっつきそうなの……」
「うぐっ……そ、その顔をすれば私が甘くなると思ったら大間違いです! 今日の私は厳しいですからね!」
「マーガレットのお料理も大好きだけど、今日の我が求めてるのは……『街の大衆食堂の肉』なの……お願い、マーガレットぉ……」
妖艶で美しい少女が、おっとりと甘えるように長くて細い袖を引いてくる。
長年彼女を育ててきたマーガレットは必死に顔を背けようとしたが、ついに大きな溜め息を吐いて整った肩を落とした。
「……はぁぁぁぁぁ。分かりました。……分かりましたから、立ち上がりなさい」
「わぁい、マーガレット大好き!」
「ただし! 条件があります。お肉を食べたらすぐに城へ戻ること。それと、私の目の届く範囲から絶対に離れないこと。良いですね?」
「うん!」
元気よく返事をしたルチアは、満足そうに立ち上がると、鼻をくねくねと動かして街の匂いを嗅ぎ始めた。
「ん〜……あっちの方から、甘辛くて香ばしい、良い匂いがする……」
「ちょっと、ルチア様! 一人で走らないでください!」
こうして、最強の魔王ルチアと、苦労人のお目付け役マーガレットの「極上の肉」を探す街歩きが始まった。
しかし、彼女たちはまだ知らなかった。
この交易都市『ルティナス』で、人間界の裏社会を巻き込む大きな騒動に巻き込まれようとしていることを——。




