序章 消えた第九軍団
ローマ帝国東方属州。
太陽さえ焼き殺すような、果ての見えない砂漠。
その地で、五千人の兵士が消えた。
ローマ第九軍団。
数々の反乱を鎮圧し、蛮族の王を討ち、帝国の鷲旗を東方まで運んだ精鋭だった。
彼らは、国境付近で目撃された正体不明の軍勢を追って砂漠へ入った。
敵の数は不明。
所属も不明。
軍旗も、言葉も、武器さえ確認できていない。
ただ一つだけ報告されていた。
遠くの砂嵐の中に、青い城壁が見えた、と。
第九軍団は、その翌朝を最後に消息を絶った。
伝令は戻らなかった。
狼煙も上がらなかった。
戦闘音を聞いた者もいなかった。
まるで五千人の軍団が、砂漠そのものに飲み込まれたように。
三日後。
捜索隊が現地へ到着した。
そこに死体はなかった。
血痕もなかった。
戦いの跡すらない。
残されていたのは、砂の上へ整然と並べられた剣、盾、槍、兜。
そして軍団の象徴である黄金の鷲旗。
そのすべてが、持ち主だけを失っていた。
捜索隊長は、言葉を失った。
兵士が武器を捨てることはある。
敗走することもある。
だが、五千人全員が装備を残し、死体一つなく消えるなどあり得ない。
さらにその中心には、巨大な円形の焼け跡があった。
直径は百歩を超える。
砂は黒く溶け、ところどころ硝子のように固まっていた。
まるで空から巨大な太陽が落ちたかのようだった。
その円の中央に、一人だけ人間が倒れていた。
第九軍団の兵士。
全身に火傷を負い、指は震え、目は開いたまま焦点が合っていない。
彼は生きていた。
だが、もう何かを見ている目ではなかった。
救助兵が水を飲ませる。
兵士は咳き込み、乾いた唇を動かした。
「……空に……都があった」
周囲の兵士たちは顔を見合わせる。
「何を見た?」
隊長が膝をつき、肩を揺さぶる。
生存者は空を指差した。
しかし、そこにあるのは青い空だけだった。
「塔が……星を喰った」
「塔?」
「青い門……獣の壁……天まで届く階段……」
呼吸が荒くなる。
「俺たちは……千年前の戦場を見た」
「誰と戦った?」
兵士の目が、突然大きく見開かれた。
「死んだ王たちだ」
その場の空気が凍った。
誰かが小さく笑おうとした。
錯乱している。
そう言いたかった。
だが誰も声を出せなかった。
生存者の髪が、一瞬で白く染まり始めたからだ。
「な、なんだ……?」
皮膚がしぼみ、頬が落ち、手の甲に深い皺が走る。
二十代だった兵士の肉体が、目の前で老いていく。
三十年。
五十年。
八十年。
時間が彼一人へ襲いかかっているようだった。
兵士は喉を鳴らし、最後の力で隊長の腕を掴んだ。
骨のようになった指が、鎧へ食い込む。
「来る……」
「何が来る?」
「……バビロン」
隊長は聞き返した。
「何だ、それは?」
兵士の唇が震えた。
「国じゃない……」
さらに声が細くなる。
「……眠っていた……」
「何が眠っていた?」
兵士は、恐怖に歪んだ顔で空を見た。
「世界の……最初の王国……」
その直後。
彼の体は崩れた。
肉も骨も、乾いた土のように砕け、風にさらわれていく。
残ったのは、砂の上へ転がった軍団兵の指輪だけだった。
捜索隊は誰一人として、その場を動けなかった。
砂漠の彼方で風が鳴る。
まるで巨大な門が、ゆっくり開く音のように。
その夜。
ローマから数千里離れた東方の空に、七つの星が一直線に並んだ。
そして翌朝、帝都ローマ。
皇帝マルクス・アウレリウスのもとへ、極秘報告が届けられた。
第九軍団、全兵力消失。
生存者一名、異常死。
彼の最期の言葉は「バビロン」




