第9話:暴走の引き金
二〇二五年、冬。東京。
チョ・テシンは七十歳になっていた。
かつて国家を騙し、書類の壁で正義を圧殺してきた怪物の肉体は、完全に終わりを迎えていた。肺は喘ぎ、かつて完璧な「規格」で遺体を解体した両手は、今や凶器を握るのすら苦労するほどに激しく震えている。
(もう、隠れて殺す時間は残されていない。ならば――)
テシンは安アパートの暗闇で、二本の刃物を見つめた。世田谷でも使った鋭利な柳刃包丁。そして、分厚い肉をも容易に断ち切る巨大な軍用刃物、マチェット。
彼はもう、現世の法の隙間に隠れる気はなかった。自分の命が尽きる前に、この国で最も強固なシステム――「国家権力」を相手に、最大の銃撃戦を演じて死ぬ。それこそが、幼少期に自分を『クズ』と定義して排斥した世界に対する、チョ・テシンとしての最後の構造的復讐だった。
標的は、東京の片隅にある銃器販売店。決行は、街の灯りが落ち始める、閉店間際の午後八時。
カランコロン、と場違いに軽いドアベルの音が響いた。
「すみません、もう閉店ですが……」
カウンターの奥から顔を上げた初老の店主は、入ってきた奇妙な老人の姿に息を呑んだ。
白髪交じりの頭髪に、完全に感情の消え失せた「無機質な能面」の顔。そしてその両手には、抜き身の柳刃包丁とマチェットが握られていた。
店主が恐怖で声を上げるよりも、受話器に手を伸ばすよりも、テシンの動きの方が速かった。七十歳の肉体に鞭打ち、人外の執念だけで距離を詰める。
「な、お前、何をし――」
「あんたに恨みはない」
テシンの高低のない、プラスチックのような声が店内に響いた。マチェットの冷たい刃が、店主の身体を容赦なく引き裂く。
「だが、近くにいたあんたが悪い」
ドスッ、と鈍い音がして、柳刃包丁が店主の胸元深くへと突き刺さった。警察に通報する隙すら与えない、電撃的な瞬殺だった。
崩れ落ち、まだ微かに痙攣している店主の顔面に、テシンは冷酷に指を突き立てた。いつも通り、その「目」を容赦なく潰す。世界を呪う儀式は、これが最後の大舞台の前座だった。
テシンは震える手でカウンターの奥の鍵を奪い、ガラスケースを次々と叩き割った。
猟銃、空気銃、そして大量の弾薬。
奪える限りの銃器を大きなバッグへと詰め込み、店の裏口に停めていた盗難車へと放り込んだ。アクセルを踏み込み、夜の闇へと車を急加速させる。
「……遅かったか」
通報を受け、激しいサイレンを鳴らして警察が現場に突入したときには、すべてが終わっていた。
静まり返った店内。割られたガラスの破片が散乱する床に、大量の血の海に沈んだ店主の遺体が転がっていた。
その顔面は、どす黒い血に染まり、両目は無残な空洞となって天井を見つめている。
「銃器が大量に強奪されています! 犯人は武装している、ただちに広域手配を――!」
パニックに陥る捜査員たちの群れの中に、もう七十代後半となり、杖を突きながらも執念だけで現場の規制線を潜り抜けてきた松井浩亮の姿があった。
松井は店主の潰された眼窩を見つめ、静かに、しかし確信を込めて呟いた。
「隠れるのをやめたな、テシン。……自分から、俺たちの前に姿を現す気だ」
松井の瞳には、かつて昭和の時代に八つ足村で、そして松本でテシンにすべてを奪われたあの夜の炎が、今なお消えずにぎらぎらと燃え盛っていた。
二人の老兵の命の灯火は、残り僅か。
テシンはこの後、さらに交番を襲撃して警察官を殺害し、本物の拳銃「ニューナンブ」を強奪。そして全ての武器を携え、自らの因縁の地である長野・浅間山へと向かう。




