第10話:氷の要塞
二〇二六年、二月十八日。長野県、浅間山。
記録的な大雪が山肌を白く閉ざし、吹き荒れる極寒の地吹雪が視界を遮っていた。
一九八七年、あの松井刑事との死闘の末に崩落した地下壕のすぐ近く、浅間山の麓に佇む老舗の旅館。その玄関前に、雪にまみれた一台のセダンが静かに停車した。
車内から降りてきたのは、七十一歳になったチョ・テシンだった。
肺は完全に病み、息を吐くたびに血の混じった喘鳴が響く。だが、その顔には、一九七五年のあの夜から変わらない、感情の消え失せた「無機質な能面」が張り付いていた。
彼の手には、強奪したバッグが握られている。中には、銃器販売店から奪った大量の猟銃、そして交番を襲撃して警察官から奪い取った本物の拳銃「ニューナンブ」が詰まっていた。
ガラガラ、と旅館の引き戸が開く。
暖房の効いたロビーに、テシンの雪まみれの靴音が響いた。
「いらっしゃいませ。……あ、宿泊ですか?」
受付の若い従業員が、怪訝そうな顔をしながらも愛想よく尋ねた。それが、この男の人生最後の舞台の、開演の合図だった。テシンは何も答えず、コートのポケットから、黒光りするニューナンブを静かに、かつ一切の躊躇なく引き抜いた。
ドン。
乾いた銃声。至近距離から放たれた弾丸が、従業員の眉間の真ん中を正確にブチ抜いた。青年は、自分がなぜ撃たれたのかすら理解できない顔のまま、どさりと床に崩れ落ちた。溢れ出た鮮血が、畳を急速に赤く染めていく。
「……そがな目で、わしを見るなと言うたろう」
テシンは、血の海の向こうで腰を抜かしている他の従業員や宿泊客たちを見下ろし、能面の顔のまま冷酷に言い放った。
「全員、奥の客室へ入れ。動いた奴から、目を潰して殺す」
こうして、後に令和最大の惨劇として歴史に刻まれる**『第2次あさま山荘事件』**の、あまりにも残酷な幕が上がった。
「浅間山の旅館に、チョ・テシンが立て籠もった」
その報せが、長野県警の本部長室に響いたとき、警察組織は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
世田谷の一家殺害、そして東京の銃器販売店と交番の襲撃。日本中を恐怖に陥れている「令和の最凶指名手配犯」が、大量の武器と人質を抱え、天然の要塞とも言える雪山の旅館に籠城したのだ。
すぐに警察庁から特別救捜隊(SAT)が派遣され、浅間山は完全に封鎖された。
数百人の武装警官、機動隊の装甲車、そして遮るもののない吹雪。
その包囲網の最前線、冷たい風が吹き付ける指揮車の影に、一本の杖を突き、防寒コートに身を包んだ老人が立っていた。
七十代後半となった、元刑事・松井浩亮。
「松井さん、下がってください! ここは現場だ、民間人は――」
後輩の指揮官が止めるのを、松井はぎらついた「復讐の怪物」の目で睨みつけ、黙らせた。
松井の懐には、一九八七年のあの地下壕の夜から、四十年近く肌身離さず持ち歩いてきたソ連製の拳銃・トカレフが眠っている。
「民間人だと? 笑わせるな。あいつをここに引っ張り出したのは、長野の地底にやつを埋め損ねた、俺の執念だ」
松井は浅間山の白い山肌を見つめた。
一九八六年の韓国・八つ足村から始まった、書類とシステム、そして血で血を洗う殺し合い。そのすべての因縁が、この雪山へ円環を閉じるように戻ってきたのだ。
「テシン……お前、ここで俺と死ぬ気だな」
二月十八日の夜。
旅館の窓という窓は、すべて家具や畳で強固に塞がれ、テシンの手によって「完璧な銃眼(射撃用の穴)」へと作り変えられていた。テシンの持つ構造・システムを構築する才能は、この籠城戦において「鉄壁の要塞」を生み出していた。
人質たちを暗い地下室へと閉じ込め、両目を監視したまま、テシンは二階の窓辺に座っていた。
傍らには、何挺もの猟銃と、山のような弾薬。
テシンは高級なシガー(モンテクリスト)に火をつけた。紫煙が暗い部屋に広がる。
ガタガタと震える手で、彼は傍らに置いた警察無線(交番襲撃時に奪ったもの)のトークスイッチを押した。
「松井刑事……いや、もう刑事ではない男よ。聞こえているかね」
吹雪の音に混じって、指揮車の無線スピーカーから、あの高低のないプラスチックのような声が流れた。
松井は受話器をひったくった。
「テシン……! まだ生きていやがったか、この化け物が!」
『の? 生きているとも。お前がわしを忘れられないように、わしもまた、お前のその綺麗な『正義の目』が忘れられなくてね。現世の警察をすべて連れてくるがいい。この浅間山の雪を、わしのルールで、お前たちの血で、真っ赤に染め上げてやる』
「待っていろ……今度こそ、お前の能面を叩き割ってやる!」
通信が切れ、静寂が戻る。
外の気温はマイナス十度を下回り、サーチライトの光が、雪の中に佇む旅館を不気味に照らし出している。
人質を取られた警察は、容易に突入できない。
テシンは暗闇の中、ニューナンブのシリンダーをカチリと回し、静かに笑った。
かつて、家族から裸で雨の中に追い出され、暗闇の倉庫で震えていた少年は、いまや国家権力すらも恐怖で震え上がらせる「氷の要塞の王」となったのだ。
戦いはまだ、始まったばかり。
翌日、警察の放つ「放水」と、テシンの放つ「猟銃の弾丸」が激突する、さらなる地獄の二日目へと、事件はもつれ込んでいく。




