第11話:能面の哄笑
二〇二六年、二月十九日。朝。
浅間山の地吹雪は前夜よりもしさを増し、氷点下十二度の極寒が、包囲する警官隊の防弾ベストを白く凍りつかせていた。
「これ以上の長期戦は、人質の命に関わる。――強行突破だ」
長野県警の指揮車から、非情な命令が下された。
ターゲットは、テシンが立て籠もる旅館の正面玄関。バリケードとして強固に組まれた畳や家具の隙間から、テシンが作った「銃眼」が不気味に外を覗いている。
「突入、突入、突入――ッ!!」
突撃の合図とともに、特製の防弾盾を構えた特別救捜隊(SAT)の精鋭数名が、雪を蹴立てて正面玄関へと猛然とダッシュした。彼らが目指すのは、現世の「法」と「圧倒的な数」によって、一人の老いた犯罪者を圧殺すること。
だが、彼らが要塞の境界線を一歩踏み越えた瞬間、塞がれた窓の暗闇から、炎が吹き出した。
ドン。ドン。ドン。
重厚な、そして恐ろしく規則正しい猟銃の銃声。
「があぁっ!?」
先頭を走っていた隊員の防弾盾が、至近距離からの強烈な散弾によって砕け散り、その背後の肉体をズタズタに引き裂いた。
雪の上に倒れ込み、激しく血を吐く隊員。
「負傷者発生! 援護しろ、引きずり出せ――」
救出のために飛び出した別の隊員の眉間に、今度は一発の正確な弾丸が突き刺さった。交番から奪ったニューナンブの銃撃だった。放たれる銃弾は、どれも寸分の狂いもなく、隊員たちの「目」の周辺、防弾ベストで守られていない頭部を正確に狙い定めていた。
正面突破を試みた精鋭たちは、旅館の敷居を跨ぐことすらできず、次々と雪原に崩れ落ちていった。
白い雪の上が、瞬く間に若い警察官たちの流した赤黒い鮮血で汚されていく。
湯気を立てて広がる血の海。
「無線が繋がらない!」
「突入部隊、全滅です!」
「殉職者、さらに二名追加!」
悲鳴と怒号が交錯する指揮所の無線機から、ただただ犠牲者が増え続ける絶望的な報告だけが垂れ流されていた。現世の警察がどれほど近代的な装備を誇ろうとも、テシンがこれまでの犯罪人生で培ってきた「不条理の防衛システム」の前には、ただの肉の標的に過ぎなかった。その凄惨な光景を、二階の薄暗い窓から見下ろしている男がいた。
チョ・テシン。テシンの手には、熱を持った猟銃が握られている。彼の足元には、数え切れないほどの空薬狭が転がり、部屋には火薬の匂いと、彼の肺から溢れた血の匂いが混ざり合っていた。
テシンは窓の外、血の海の中でピクリとも動かなくなった警察官たちの遺体を見つめた。
彼らの剥き出しの「目」は、もうテシンを蔑むことも、クズと定義することもできない。恐怖と絶望の中で凍りつき、ただ虚無を見つめているだけだ。
その時、テシンの肉体に異変が起きた。
口元が、ゆっくりと歪んだ。三年前に心を殺し、無機質な能面となって以来、四十年以上もの間、一度たりとも動かなかったその頬の筋肉が、引きつるように持ち上がっていく。
「ふ……、ふふ……」
喉の奥から、乾いた砂が擦れるような音が漏れた。
「ははは……、ははははははははは――ッ!!」
チョ・テシンは、笑った。
久しく忘れていた、狂気とカタルシスに満ちた哄笑。
それは、かつて自分を雨の夜に裸で追い出し、暗闇の倉庫に閉じ込めて笑っていた親兄弟への、そして自分を排除しようとしたこの世界そのものへの、完全な「逆襲」のファンファーレだった。
「……笑っていやがる」
指揮車の影で、双眼鏡を覗いていた松井浩亮の顔が、激しい怒りと宿念で歪んだ。
レンズの向こう、塞がれた窓の隙間で、血濡れた能面をクシャクシャに歪めて笑っている老いた怪物の姿が、はっきりと見えた。
「うれしいか、テシン。世界をお前のルールで塗りつぶせて、そんなに楽しいか」
松井は杖を雪の中に放り捨てた。
彼の右手は、コートのポケットの中で、冷たいトカレフのグリップを狂ったように握りしめている。
周りの若造ども(現世の警察)には、あの笑みの意味が分からない。
だが、テシンによって「復讐の怪物」へと作り変えられた松井には、痛いほど理解できた。やつは今、人生の最期に、自分が世界の王になれたことを歓喜しているのだ。
「本部長! これ以上の強行突入は無理です! 放水車と重機を前線へ――」
混乱する指揮所を余所に、松井は一人、雪の中を歩き始めた。もう警察の作戦などどうでもいい。やつを止められるのは、同じ地獄の泥水をすすってきた、俺だけだ。
二月十九日の陽が落ち、浅間山は再び漆黒の闇に包まれた。
旅館の周囲には、大破した装甲車と、数名の警察官の遺体がそのまま残されている。警察は一歩も近づけない。
テシンの哄笑は収まり、彼は再び冷酷な能面に戻って、暗闇の中で銃弾を一つずつ込めていた。
残された弾薬は、あと僅か。テシンの肉体もまた、激しい激痛と喀血によって、二月二十日の夜を越えられるかどうかという極限状態にあった。
「さあ、お前の番だ、松井……」
テシンはニューナンブを懐に収め、地下室の人質たちの目を一瞥すると、静かにその時を待った。




