第8話:世田谷の黒い雨
二〇一九年(平成三十一年)、冬。
元号が令和へと変わる直前の、どこか落ち着かない空気が世間を覆っていた。
チョ・テシンは六十四歳になっていた。
かつて韓国の没落名士から身分を簒奪し、日本の警察組織を嘲笑ってきた男の肉体は、今や長野の地下壕で負った重傷の古傷と、容赦ない「老い」によって限界を迎えていた。指先はしばしば痙攣し、かつてのような俊敏な動きは望めない。
二〇一七年、二〇一八年。テシンは現世に自分の存在を証明し続けるため、潜伏先でいくつかの殺人を行っていた。だが、標的は一人か二人。衰えた肉体で確実に処理できる規模を選んだため、現世の警察はそれをただの地方の未解決事件として処理し、大きな騒ぎにはならなかった。
(これでは足りん。わしのシステムが、現世の記憶から消えてしまう)
テシンは、より巨大な「絶望の記念碑」を求めていた。
ターゲットに選ばれたのは、東京・世田谷の郊外に佇む、生垣に囲まれた一軒のモダンな邸宅。そこに住む弁護士一家に、個人的な恨みなど何一つない。
ただ、現世の「法」を司る象徴である弁護士という記号と、幸せを絵に描いたような四人家族という構造が、テシンの歪んだ美意識を刺激しただけだった。
深夜二時。冷たい雨が降る中、テシンは影のように庭へと忍び寄った。
その手に握られているのは、刃渡りの長い鋭利な柳刃包丁。男は足音もなく、浴室の窓のロックを熟練の技術で解除し、静かに内部へと侵入を開始した。
ガタ、と微かな水音が脱衣所に響く。
テシンの顔は、薄暗い闇の中でもやはり、何の感情も宿らない「無機質な能面」のままだった。白髪は頭部を覆い、顔を刻むシワは深くなっていたが、柳刃包丁を握る力だけは人外の執念で固定されていた。
テシンは廊下を進み、まずは二階の寝室へと向かった。ベッドで泥のように眠る弁護士の夫と、その妻。
「……だれ、だ……」
気配を察した夫がうっすらと目を覚まし、闇の中に立つ能面の老人の影に気づいた瞬間、テシンの柳刃包丁が音もなく、容赦なく振り下ろされた。
「あ、がっ……!?」
悲鳴をあげる暇さえ与えない。肉体の衰えを補うため、テシンの刃はかつてよりも執拗に、かつ深く急所を抉った。
そして、動かなくなった夫婦の顔面に、テシンは指を突き立てた。
――両目を、潰す。
続いて、隣の部屋で怯える二人の子供たちの部屋へ。
「お父さん? お母さん?」
泣きじゃくる幼い子供たちの瞳に、血濡れた能面の老人が映る。テシンはその「綺麗な目」を、一切の躊躇なく、機械的な正確さで一つずつ破壊していった。
それは凄惨な作業だった。だが、テシンにとっては、幼少期に自分を汚物のように見つめてきた世界に対する、儀式的なルールの執行に過ぎなかった。
一家四人を完全に沈黙させた後、テシンは返り血を浴びた能面の顔のまま、リビングのダイニングテーブルへと向かった。
ポケットから取り出したのは、時代遅れなカセット式のボイスレコーダー。
かつて一九八七年の松本で、松井の相棒を爆殺した時にも使った、自分の声を現世に刻みつけるためのシステム。
テシンは再生と録音のボタンを同時に押し、静かにマイクへ向かって語りかけた。
その声は、一九七五年の下関の夜よりも、さらに深く、暗い奈落の底から響くようなねっとりとしたものだった。
『そがな目でわしを見んでぇや。――恨むなら、生まれてきたことを恨むんで? の?』
かつては「かあちゃんを恨め」だった。特定の個人への怨恨だった彼の呪いは、四十年の時を経て、この世に「生まれてきたこと(存在そのもの)」への絶対的な拒絶へと肥大化していた。
録音を終えたレコーダーをテーブルの真ん中にぽつんと置き、テシンは柳刃包丁についた血を拭いもせず、再び浴室の窓から雨の夜の中へと消え去った。
数時間後、朝。
第1話の冒頭と同じく、世田谷の邸宅は赤色灯の海に包まれていた。
「……やつだ。間違いない」
現場に駆けつけたのは、もう七十代を迎え、警察組織の籍すら失いながらも、私立探偵という肩書きでテシンを追い続けていた松井浩亮だった。
老いた松井の目は、激しい怒りと宿念で血走っていた。
テーブルの上のボイスレコーダーから流れる『の?』という声を聴いた瞬間、松井は静かにトカレフの弾丸を込めた。
「まだ生きてやがったか、チョ・テシン……。お前も俺も、もう先は長くない。次が、本当の最後だ」
一方、東京の安アパートの暗闇の中で、テシンは自らの激しく震える両手を見つめていた。
今回の犯行で、肉体は完全に限界を迎えた。これ以上の隠密な殺人は不可能。
ならば、残されたわずかな命の灯火を使い、現世のシステム(国家権力)を相手に、最大にして最後の「舞台」を作る。
二〇二五年、東京。
テシンは知能犯の仮面を完全に脱ぎ捨て、マチェットを手に銃器販売店へと暴走を開始する。物語はいよいよ、二〇二六年の浅間山へと向けて、最終決戦のカウントダウンを始める。




