第7話:白昼の狂刃
一九九九年(平成十一年)、冬。
世間はノストラダムスの終末論やY2K(2000年問題)に揺れ、目に見えない不穏な熱気に包まれていた。二十世紀が終わりを告げようとする、その年の朝。
東京・渋谷スクランブル交差点。
通勤・通学のサラリーマンや若者たちで、巨大な交差点が埋め尽くされようとしたその瞬間、信号を完全に無視した一台の白いライトバンが、猛烈な爆音を上げて歩行者の群れへと突っ込んだ。
ドン、ドガガガガッ! と、鈍い衝撃音が連続して響く。
弾け飛ぶ人間の肉体、アスファルトに撒き散らされる鮮血。一瞬の静寂の後、渋谷の中心は地獄の叫び声に包まれた。
「うわあああッ!?」
「車が突っ込んできたぞ! 誰か救急車を――」
大混乱に陥る群衆の真ん中で、ライトバンのドアが静かに開いた。
降りてきたのは、防寒コートに身を包んだ、白髪混じりの男。四十四歳になったチョ・テシンだった。
その顔は、やはり何の感情も宿らない「無機質な能面」のまま。だが、その手には、鈍く光る巨大なサバイバルナイフが握られていた。
テシンは、逃げ惑う人々を背後から冷酷に、機械的な正確さで刺し、斬り倒していった。
そこに理由もなければ、標的の選別もない。
かつて八つ足村で見せたような知能犯としての「書類の罠」を捨て、白昼堂々の暴挙に出たテシンの肉体は、長野の重傷と「老い」によって、確実に限界を迎えていた。体内のオカルト的システムが悲鳴を上げ、己の残り時間が少ないことを本能で察していたのだ。
(世界がわしを無視するなら、わしのルールで現世の構造を上書きしてやる)
「ひっ、助け――」
命乞いをする若者の胸元に、テシンは容赦なく刃を突き立て、その「両目」を無慈悲に切り裂いた。
悲鳴を上げる人々、血を流して倒れる無辜の民。テシンにとって、この渋谷のスクランブル交差点で逃げ惑う人々の「恐怖に染まった目」は、かつて自分をクズと罵り、雨の夜に追い出した親兄弟の目の反転だった。今、自分が圧倒的なシステム(暴力)となり、東京の中心でその目をすべて圧殺している。
凄惨な凶行が始まってから、わずか三分。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえ始めた瞬間、テシンは深追いすることなく、血濡れたナイフをコートの内に隠し、パニックで逆流する群衆の波へと滑り込むようにして姿を消した。
現世の警察が現場に到着したときには、そこには血の海と化した交差点と、盗難されたライトバンが残されているだけだった。テシンは完全に捜査網の裏をかき、再び逃走に成功したのだ。
「……また、やつか」
事件の数時間後。渋谷署の捜査本部に、本庁の窓際族として執念だけで潜り込んでいた五十代の松井浩亮が立っていた。
テレビのニュースが、渋谷の通り魔事件を「世紀末の狂気」として報じている。
現場に残されたライトバンの車内、ダッシュボードの上に、一本のカセットテープが遺されていた。
松井が震える手でそれを再生すると、ザーザーというノイズの向こうから、あの四十四年前と変わらない、ねっとりとした男の声が響いた。
『の? 松井刑事。世界はこれほど脆い。書類も、正義も、わしのナイフ一本で簡単に切り裂ける』
「テシン……チョ・テシン――ッ!!」
松井は捜査本部の机を拳で叩きつけた。拳から血が滲む。
一九八六年の八つ足村、一九八七年の松本、そして一九九四年の浦和、一九九九年の渋谷。
時代が昭和から平成、そして次の世紀へと移り変わろうとしても、あの怪物の呪いだけは現世のバグとして増殖し続けている。松井の頭髪にも白いものが混ざり始めていたが、その瞳の奥の「殺意」だけは、さらに純度を増してギラぎらと輝いていた。
テシンはこの渋谷の事件を最後に、再び歴史の闇へと深く、深く潜伏する。
次に彼が姿を現すのは、二十年後の二〇一九年。
肉体がさらに老いさらばえた六十四歳のテシンが、ある弁護士の一家を襲撃し、物語はあの「世田谷の夜」へと、円環を閉じるように繋がっていく。




