第6話:平成の亡霊
一九八八年(昭和六十三年)。
長野県松本市の旧軍地下壕が膨大な土砂とともに崩落してから、わずか一年後。
今度は九州、福岡県の厳冬に閉ざされた静かな農村で、すべてを焼き尽くす凄惨な放火殺人事件が発生した。
深夜、激しい猛炎に包まれた一軒の古い農家。のちに鎮火した焼け跡から発見された一族の遺体は、骨まで焼け焦げていながらも、やはり全員が――顔面の中心にある「二つの球体」を、生きたまま徹底的に破壊されていた。
地元の警察組織はこれを「土地の境界線を巡る怨恨の末の心中放火」として早々に処理しようとしたが、ただ一人、長野から執念の糸だけを頼りにこの地に這いつくばってきた松井浩亮だけは、煤に汚れた現場の地面を凝視し、確信していた。
「奴は、生きている。あの奈落の底から、這い上がってきたんだ」
チョ・テシンは、間違いなく生きていた。松井が至近距離から放ったトカレフの二発の弾丸は、確実に怪物の肉体を貫いたはずだった。
だが、男は、かつて韓国の八つ足村で構築した『児童供犠契約』の、あの現世の戸籍から間引かれた存在しない子供たちの血液を自らの肉体にハッキングし循環させるという、悍ましき因習の医学によって強制的に傷口を塞ぎ、文字通り人外の怪異として平成の世へと舞い戻ってきたのだ。
しかし、その代償は決して小さくはなかった。
テシンの無機質な能面の顔には、岩盤に押し潰された際についた醜く抉れた傷跡が刻まれ、その強靭だった肉体は、現世の時間を歪めた反動による急速な「死」へと向かって、不気味に変質し始めていた。
怪物は、再び平成の霧の中へと姿を消した。
*
一九九四年(平成六年)、四月。
元号は平成へと移り変わり、日本社会はバブルの狂乱の頂点から、奈落の底へと向かって静かに崩壊しつつあった。
埼玉県浦和市。新緑の美しい陽光が降り注ぐ、平凡な市民公園のゴミ箱から、信じられない猟奇の断片が発見される。
幾重にも頑丈なビニールと書類用の麻紐で梱包された、人間の、冷たくなった「両手首」だった。
警察の懸命な捜査により、被害者は現場近くの高級住宅街に住む、新進気鋭の一級建築士の男であると判明する。だが、この事件が捜査本部を真底震え上がらせたのは、その後に発見された「遺体の状態」に起因していた。
発見された肉体のすべてのパーツは、骨も肉も繊維も、すべてが正確無比に**【二十センチ四方】**の立方体に裁断されていたのだ。
筋肉の美しい断面や骨の破砕面は、まるで精密な電動工具のレーザーで測って切り出したかのように歪み一つなく、体内の血液は一滴残らず、完璧に脱色されるように抜き取られていた。
「怨恨などという生温いものではない。これは……世界そのものを書き換えようとする、あの男の署名だ」
浦和署に設置された捜査本部の薄暗い片隅で、すでに四十代半ばとなり、警察組織の上層部から「長野のオカルト崩れの狂犬」と疎まれ、窓際へと追いやられながらも執念で捜査権を維持し続けていた松井は、白黒の遺体写真を穴が開くほどに見つめていた。
なぜ、これほどまでに執拗に、人間の肉体を精密な「規格」に当てはめて解体する必要があったのか。
松井には、痛いほどによく分かっていた。これこそが、チョ・テシンが新たに発明した、現世への不条理なルール――**【肉体の構造解体】**であるということを。
*
浦和の静かな住宅街の地下室。
ウィィィン……と、耳障りな高音を立てていた大型電動ノコギリのスイッチが、静かに切られた。
密閉された室内には、テシンが愛好する高級なコイーバのシガーの香りと、鉄錆のような濃密な血の匂いが、逃げ場を失ってドロドロと混ざり合って充満していた。
白熱灯に照らされたテシンの能面の顔は、かつて三十代の若者が持っていた瑞々しい張りを完全に失い、その煤けた髪には不気味な白髪が深く混ざり始めていた。
三十九歳。長野の地下壕で負った致命的な重傷と、現世の法をハッキングするために繰り返してきたオカルト的契約の歪みが、いま彼の肉体を、常人の数倍の速度で「老い」の深淵へと引きずり下ろしていた。
かつては機械のように正確だった指先が、今や微かに、本当に微かに震え、己の肉体のコントロールが指の隙間からこぼれ落ちていくのを、テシンは冷ややかに自覚していた。
だからこそ、彼は「建築士」という名の獲物を標的に選んだのだ。
現世において、完璧な建造物の図面を引き、システムを構築する男。その肉体をバラバラに解体し、自らが定めた二十センチという絶対的な『規格』に無理矢理当てはめて切り刻む。それを行うことで、テシンは衰えゆく自らの肉体の主導権を世界から奪い返し、歪んだ支配欲を満たそうとしたのである。
「人間など、所詮は肉と骨で組み上げられた、ただの構造物に過ぎんのさ。書類で定義し、わしの規格で切り刻めば、神が作った精巧な身体など、いくらでも都合よく書き換えられる」
テシンは、完璧な立方体にされた建築士の肉体の山を見つめながら、冷酷に呟いた。
顔面の中心、ただ二つの球体だけは、原型を留めぬほどドロドロにすり潰され、床のバケツへと無造作に投げ捨てられている。
彼にとって、この解体作業は、幼少期に下関の暗い倉庫で、親兄弟の邪悪な「目」によって自らの存在を否定され続けた記憶に対する、最も高度で冷徹な**「構造的復讐」**であった。
世界がわしを出来損ないとしてバラバラに扱ったのなら、わしも世界を、最も美しい規格で切り刻んでやる。能面の奥の瞳が、漆黒の愉悦に濡れた。
*
数日後、浦和のバラバラ殺人は、犯人の手がかりを一切残さぬまま、現世の歴史の闇へと埋没し始めていた。
あまりにも完璧な血抜き、そして一切の目撃証言の不自然なまでのなさ。平成の警察が誇る最新の科学捜査をもってしても、テシンが構築した「完璧な規格の壁」の前には、ただ無力に立ち尽くすしかなかった。
夕暮れの市民公園、規制線の前に佇む松井のポケットの中で、私用の移動電話が不意に振動した。
それは、警察の組織図には決して載らない、テシンの生存を独自に追う裏の協力者からの、 震えるような一報だった。
『……松井さん。浦和の現場の目と鼻の先で、古いカセットテープが発見されました。磁気テープの中身はほとんどが激しい雨のようなノイズですが……その最後に、信じられない男の声が残されていたそうです』
松井は受話器を握る右手に、骨が鳴るほどの力を込めた。手のひらには、一九八七年のあの雪夜についた、消えない半月型の爪跡が白く浮き上がる。
「……セリフは、何だ」
『――そがな目でわしを見んでぇや。の?……そう、囁いていたそうです』
松井の瞳の奥で、限界まで押し殺されていた殺意の業火が、爆発的に燃え上がった。
「テシン……お前がどれだけ姿を変え、どれだけ時代が移ろうと、俺の『目』だけは絶対に騙されないぞ。お前がその薄汚い命の灯火を燃やし尽くす前に、必ずこの手で、地獄の蓋を閉めてやる」
平成という新たな時代の幕開けとともに、再び加速し始めた怪物と狂犬の円舞曲。
テシンの肉体を蝕む「老い」という名の秒針は、彼をさらなる凄惨な劇場型犯罪へと駆り立てていく。
時代は、ノストラダムスの予言と世紀末の狂気に狂い始める一九九九年、そして事態は加速度的に突き進んでいく。




