第5話:奈落の証明
一九八七年、冬。長野県松本市郊外、深く険しい山林。
吹き荒れる猛吹雪はすべてを白く塗り潰し、人間の理性を凍えさせるようだった。その過酷な雪山を、松井浩亮は血眼になって突き進んでいた。
凍てつく両手に握られているのは、あの歩道橋の雪原で、チョ・テシンが己を誘うようにあらかじめ残していった、黒く冷たいソ連製の自動拳銃――トカレフであった。支給されたニューナンブを、警察官としての誇りとともに雪に捨てた松井には、もうこの呪われた鉄塊しか残されていなかった。
やがて彼がたどり着いたのは、戦時中に掘られたまま時代の遺物として放置された、広大な旧軍地下壕の不気味な入り口だった。
「テシン……そこにいるのは分かっているぞ」
洞穴へと一歩足を踏み入れた瞬間、外の猛吹雪の咆哮が嘘のように消え去り、粘着質な死の静寂と、湿った泥の匂いだけが空間を支配した。
懐中電灯の細い光が、結露したコンクリートの壁を冷たく照らし出す。その暗闇の奥から微かに漂ってきたのは、あの男がこの世で唯一愛好する、高級シガーの、あのねっとりとした甘い香りだった。
松井は迷わず暗闇の深淵へと歩を進める。もはや彼を縛る法も、手続きという名の書類も、何一つ存在しない。胸にあるのは、若い相棒・木村の肉体を無慈悲に焼き尽くした炎への果てなき怒りと、チョ・テシンという怪物をこの手で屠るという、純粋に精製された殺意だけであった。
懐中電灯の光軸が、暗闇の最奥を捉えた。そこに、その男はいた。
地下壕の崩れかけた壁に無造作に背を預け、一切の感情を排した冷徹な能面の顔で、静かにシガーを燻らせている男。
「遅かったのぉ、松井刑事。いや……もう刑事ではないか」
テシンは直射される光を眩しがりもせず、顔の筋肉を一つも動かさぬまま、ねっとりとした山口の訛りで微笑んだ。
「黙れ。お前をここで殺す」
松井はトカレフの銃口を、テシンの額の真ん中へと突きつけた。引き金にかかった指が、激情のあまり微かに震える。
「そがな目でわしを見んでぇや。――のぉ? 撃てるかね?」
死の鉄塊を脳天に突きつけられてなお、テシンの能面は寸分も崩れない。
「お前が作った理不尽なシステムなど、この一発の弾丸で完全に終わりだ!」
「本当にそう思うか?」
テシンは可笑しそうに、白く濃密なシガーの煙を松井の顔に吹きかけた。
「お前は今、わしを殺すために法を捨て、現世のルールを自ら裏切り、その呪われたトカレフを握っとる。それはね、松井。お前がわしの作った『暴力と絶望のシステム』に、完全に屈服したという揺るぎない証明なんよ。お前はわしを殺しに来たのではない。わしという構造の一部に、自ら進んで成り下がったのだよ」
「違う……! 俺は、木村の無念を――!」
「同じことじゃ。かつて、わしを暗闇の倉庫に監禁し、汚物のように見下してきた親兄弟の邪悪な『目』と、今のお前の『目』は完全に一致しちょる。復讐という大義名分を免罪符にして、目の前の生命を圧殺しようとしとるだけじゃ。松井、お前はわしがこの世に生み出した、最高傑作の怪物なんよ」
「うるさい……うるさあああああッ!!」
テシンが紡ぐ冷徹な論理の刃が、松井の脳内に残されていた最後の理性を、微塵に切り裂いた。
次の瞬間、閉鎖された地下壕の空間に、鼓膜を破らんばかりの凄まじい破裂音が連続して轟いた。
トカレフの重厚な銃撃。松井の放った弾丸は、至近距離から正確にテシンの肉体を捉えた。一発目がテシンの右肩を強烈にブチ抜き、二発目がその胸骨を容赦なく抉り取る。
暗闇の中に鮮烈な赤が飛び散り、テシンの身体が凄まじい衝撃で後方の壁へと激しく吹き飛んだ。壁面に叩きつけられ、崩れ落ちるテシン。彼の高級なスーツが、溢れ出る自らの鮮血によって、またたく間に不気味な黒赤色へと染まっていく。
だが、致命傷を負い、床に這いつくばりながらも、テシンは能面の奥の瞳で、狂気と絶望に歪みきった松井の顔をじっと見つめ返していた。その血の泡を吹く唇が、奇怪な三日月のように不気味に吊り上がる。
「……そがな、目で……わしを、見んでぇや……」
それは一九七五年、下関の雨の夜に彼が家族へ言い放った、あの原点の呪詛であった。
激しい連続銃撃がもたらした強烈な衝撃波と、テシンの巨躯が激突した衝撃。それが、戦後数十年にわたってひっそりと風化を続けていた旧軍地下壕の天井に、決定的な致命傷を与えた。
地鳴りのような重低音が、足元から頭上へとバリバリと不穏に響き渡る。
「な、なんだ……!?」
松井が驚愕して上を見上げた瞬間、巨大なコンクリートの破片と、数十トンに及ぶ大量の土砂が、激しい轟音とともに天井から一気に崩落してきた。
「テシン――ッ!!」
松井は押し寄せる土砂の波に巻き込まれそうになりながらも、反射的に手を伸ばした。しかし、容赦なく降り注ぐ巨大な岩石の群れが、血の海に沈むチョ・テシンの身体を、瞬く間に、完全に視界から覆い尽くしていった。
地下壕の奥から、凄まじい風圧とともに灰色の土煙が爆発的に噴き出す。松井は命からがら、崩落していく暗黒の入り口から、外の白い雪山へと転がり出た。
背後で、重い音を立てて地下壕の入り口が完全に土砂で埋まり、永遠の閉塞を迎える。
後に残されたのは、ただ激しく吹き荒れる、冷たい吹雪の音だけだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
雪の中に倒れ込んだ松井は、硝煙の匂いが残るトカレフを握りしめたまま、凍りついたように動けなくなった。
復讐は、果たしたはずだった。テシンの肉体には、確実に二発の重い鉄塊を撃ち込んだ。あの生き埋めから生還できる人間など、この世にいるはずがない。
だが、雪を噛み締める松井の胸に去来したのは、カタルシスなどでは断じてなかった。
『お前はわしが作った、最高傑作の怪物なんよ』
テシンが今際に遺したその言葉が、消えない烙印のように、彼の魂の奥底にこびりついて離れない。
のちに地元警察と自衛隊による大規模な重機を用いた発掘作業が行われたが、この崩落した奈落の底から、「チョ・テシン」の遺体が発見されることは、ついになかった。
一九八七年、冬。チョ・テシンは歴史の表舞台から姿を消した。
しかし、長野の冷たい土底から、彼の生み出した不条理なシステムと狂気の火種は、昭和という時代の終焉とともに消え去ることはなかった。それは来るべき「平成」という、新たな時代の混沌とした闇の隙間へと、ひっそりと、しかし確実に、その根を伸ばし始めていた。




