第4話:歪んだゲーム
一九八七年、冬。長野県松本市。
険しい山々に囲まれた城下町は、数日来の記録的な大雪に見舞われ、街全体が凍てつく白い静寂に深く沈んでいた。
その緊迫した静寂を切り裂くように、松本署の捜査本部に設置された臨時の直通電話が、けたたましく鳴り響いた。
「……はい、松井だ!」
受話器をひったくるように耳に押し当てた松井浩亮の顔には、一年前の八つ足村で見せた若き面影は、もうどこにも残っていなかった。
鋭く突っ張った頬、執念で赤く充血した目。あの異国での完全なる敗北以来、彼はチョ・テシンという名前の怪物を現世の檻に引きずり戻すこと、ただそれだけのために、己の全人生の血液を注ぎ込んできた。警察庁から事実上の左遷としてこの地に転属となってなお、彼の飢えた目はテシンの影を追い続けていたのだ。
今回の事件は、地元の有力資産家を狙った幼い息子の誘拐。
だが、その身代金の要求手法は、狂気的なまでに計算され尽くしていた。犯人は警察の介入を完全に予期した上で、あらかじめ指定した公衆電話から別の公衆電話へと、捜査員たちを激しい吹雪の街中で狂ったように走り回らせる「移動システム」を構築していた。
そして今、受話器の向こうから聞こえてきたのは、あの脳髄にこびりついて離れない、高低のないプラスチックのような乾いた声だった。
『久しぶりじゃな、松井刑事。日本の冬は、韓国の農村よりも少し冷えるのぉ』
「……テシン! チョ・テシンだな! どこにいるッ!?」
松井の地鳴りのような怒号に、捜査本部が一瞬で凍りつく。
受話器の向こうの怪物は、相変わらず能面のような不気味な静寂を漂わせたまま、ねっとりと耳元で囁き続けた。
『身代金の引き渡し場所を変更します。次の指示は、松本城の裏手にある歩道橋の公衆電話。制限時間はあと十分。……ああ、それから』
テシンは楽しげに、かすかに息を漏らして笑った。
『今回は特別なお荷物を用意しちょるけぇ。お前の大切なか弱き相棒に、現世のルールがいかに無力か、教えてあげるためにね』
「木村――ッ!!」
*
激しい吹雪が視界を遮る中、松井が息を切らせて松本城裏の歩道橋へと駆けつけた時、そこには人間の仕業とは思えぬ異様な光景が広がっていた。
松井の若い相棒である木村刑事が、完全に密閉された公衆電話ボックスの中で椅子に固く縛り付けられ、厚いガムテープで猿ぐつわをはめられていた。木村の目は恐怖に大きく見開かれ、大粒の涙が頬を伝って凍りついている。
彼の胸元には、複雑に絡み合う無数のコードと、デジタルタイマーが不気味な赤色で明滅する特殊なプラスチック爆薬が、頑丈に固定されていた。
そして、木村の耳元には、受話器がガムテープでぐるぐる巻きに固定されている。
「動いちゃだめじゃ、松井刑事。そのボックスの扉を強引に開けたら、即座に起爆する仕組みにしちょるけぇの」
ボックスのスピーカーから、テシンの声が冷酷に響いた。
ガラスの向こう側で、木村が声にならない悲鳴を上げながら、額をガラスに叩きつけるようにして激しく首を振る。
来ないでくれ、先輩。逃げてくれ。
その目が、必死にそう訴えていた。デジタルタイマーが刻む残された時間は、わずか**【三分】**。
「テシン! 貴様、何の真似だ! 目的は金だろう!」
松井は吹雪の中で受話器に向かって絶叫した。
歩道橋を遠く見下ろす、消灯した雑居ビルの一室。窓辺に佇むテシンは、高級なコイーバのシガーに静かに火をつけ、その豊かな煙を燻らせながら、冷徹に語りかけた。
『金など、最初からどうでもええ。これは純粋な実験だ。松井刑事、お前たち現世の警察は、常に「法」と「手続き」という書類のルールに従って動く。だが、この極限状態の三分間で、お前たちの神聖なルールが何の役に立つ?』
テシンにとって、これは幼少期に家庭という密室で受けた、理不尽な倉庫監禁の完璧なる反転であった。
暗闇の密室に閉じ込められ、理由なき暴力と恐怖に震えていた少年時代。今度は自分が、警察という現世の絶対的な権力を、三分間という完璧な「時間の檻」に閉じ込め、その無力さを骨の髄まで思い知らせてやる番なのだ。
『さあ、選択しなさい、松井刑事』
テシンの声が、冷酷なカウントダウンのように雪夜に響く。
『今すぐその扉を開けて、愛する相棒とともに木っ端微塵になるか。あるいは、お前の足元に落ちている「木村の拳銃」を取り、お前たちの神聖な手帳をその場で焼き捨てて、一線を越えてわしのルールに従うか』
「……何を、言っている……!」
『残り一分半。木村の命を救う爆弾の解除コードは、お前が現世の偽りの正義を捨て去った瞬間にだけ、教えてあげる。警察組織という見えない壁に守られたままでは、お前は誰も救えないのさ』
ガラスの向こう側で、木村の目が歪む。
かつて、徹をゴミのように見下し、その皮膚を四六時中焼き尽くしてきた親兄弟の邪悪な目とは違う。純粋に生を求め、先輩の無事を祈る、濁りのない若い人間の目。
その目を前にした瞬間、松井の脳裏に、八つ足村の取取室で書類一枚によって剥き出しの正義を圧殺された、あの底なしの無力感が完全に蘇った。
(現世のルールじゃ……法律じゃ、こいつを救えない……!)
「あああああああああ――ッ!!」
松井は獣のような咆哮を上げ、懐から警察手帳を取り出すと、激しい吹雪の中に投げ捨て、泥混じりの雪とともに何度も何度も踏みにじった。
「捨てたぞ! 手帳も、正義も、警察官としての俺も、何もかも捨ててやった! 解除コードを言え、テシン!!」
だが、受話器の向こうから返ってきたのは、悲しいほどに冷ややかな、怪物の嘲笑だった。
『素晴らしい。お前は今、完全にこちらの世界へ足を踏み入れた。……だが、残念ながら、現世の神はお前を救わないのさ』
ピピッ、と無慈悲な電子音がタイマーの終焉を刻む。
『の?』
「木村――ッ!!」
凄まじい爆音と熱風が、大雪の街を揺るがした。
公衆電話ボックスが鮮烈な炎を上げて木っ端微塵に吹き飛ぶ。爆風によって雪原へと激しく吹き飛ばされた松井の視界に、焼け焦げた木村の遺品の断片が、黒い雪のようにバラバラと降ってきた。
燃え盛る炎の照返しのなか、雪の上に突っ伏した松井の顔は、泥と血、そして温かい涙で無残に汚れ果てていた。
だが、猛煙の中でゆっくりと立ち上がった彼の瞳からは、かつての「昭和の熱血刑事」が持っていた光は、完全に消え失せていた。
そこに宿ったのは、法を越えた、剥き出しの純粋な殺意。
法で裁くのではない。この両手で、あの能面の男の息の根を止める。
松井自身が、テシンの仕掛けた不条理なシステムによって、現世のルールを破棄した**【復讐の怪物】**へと作り変えられた瞬間だった。
松井は、足元の雪の中に、テシンがあらかじめ残していったであろう、黒く冷たいソ連製の自動拳銃――トカレフの銃身を、きつく、白くなるまで握りしめた。
一方、松本市内の深い山林に佇む、古い地下壕の入り口。
テシンはシガーの灰を雪の上に落とし、夜空に向けて紫煙を静かに吐き出した。
「追ってきなさい、松井刑事。お前が本当の怪物になれたかどうか、最後の暗闇で確かめてあげるけぇの」
お互いの命を、そして存在そのものを削り合う二人の死闘は、長野の冷たい地下壕の闇へと、引き継がれていく。
松本事件のモデルになった事件:イヒョンホ誘拐殺人事件
(韓国の未解決事件)




