第3話:見えない壁
一九八六年、十月。京畿道・八つ足村。
連日、地を這うような重苦しい濃霧が村を完全に包み込み、太陽の光を拒絶していた。
この二ヶ月で、三人目となる幼い少女の遺体が発見される。いずれも左右の眼球を無残に抉り取られ、不気味な呪術的文様が刻まれた湿った土の中に、モノのように埋められていた。
「これほどの凶行、到底、人間の仕業とは思えん……」
泥濘に塗れた即席の現場本部で、松井浩亮は奥歯が砕けるほどに歯噛みしていた。
韓国語に堪能であるという理由から、日本の警察庁より臨時の合同捜査官として派遣されてきた新人刑事。彼の胸にあるのは、昭和の捜査一課に脈々と受け継がれる、泥臭くも純粋な「正義感」そのものだった。犯人を挙げ、被害者の無念を晴らす。その一念だけを道標に、彼はこの異国の冷たい土を踏んでいた。
だが、地元の韓国警察、特に捜査を統括するキム本部長の腰は、不可解なほどに重かった。
「松井刑事、あまり勝手なスタンドプレーは困るな。ここは我が国の領土であり、我が国の事件だ」
「しかし、キム本部長! 遺体の損壊状況、そして現場に残された署名を見れば、明らかに同一犯による連続猟奇殺人で――」
その時、視界を白く遮る霧の向こうから、重厚な黒塗りの高級車が、音もなく滑り込んできて停車した。
恭しく開けられた後部座席から降り立ってきたのは、仕立ての良い特注のスーツに身を包み、独特な甘さを持つ高級シガーの煙を漂わせた男だった。
男の顔には、何の感情の起伏もない。まるで無機質な能面が、そこに浮かんでいるかのようだった。
だが、その男が姿を現した瞬間、それまで傲慢だったキム本部長をはじめとする地元警察の面々が一斉に直立不動になり、痛々しいほど深く頭を下げたのだ。
「これは、チョ・テシン様。わざわざこのような汚れ仕事の現場に……」
テシンは、足元に平伏する警察官たちには一瞥もくれず、ただ一人、怒りに目をぎらつかせている松井へと、まっすぐに視線を向けた。
テシンの底知れない漆黒の瞳が、松井の宿す「正義の光」を冷徹に値踏みするように見つめる。
(……良い目だ。かつて、わしを暗闇に閉じ込め、出来損ないと言い放った者たちと同じ、独善に満ちた綺麗な目じゃ)
テシンの能面の奥で、昏い愉悦が鎌首をもたげた。
男は松井が日本人であることを見抜くと、表情一つ変えずに、ねっとりとした西日本の訛りが混ざる日本語で話しかけてきた。
「日本から来た刑事さんですか。物騒な村ですが、怪我のないよう、早くお帰りになるといい」
その瞬間、松井の脳裏に電撃のような衝撃が走った。
無表情な能面。そして、耳を疑うような山陽地方のイントネーション。一九七五年、下関――自分が新人時代に直面し、犯人を未だ検挙できていない『大橋邸一家忘殺事件』の調書に貼られていた、行方不明の長男・大橋徹の顔写真が、目の前の男の輪郭と不気味に重なり合った。
だが、それが二人の、四半世紀を越える血塗られた因縁の幕開けであった。
*
松井の執念深い単独捜査は、着実にテシンの足跡へと近づいていた。
事件の起きた夜、必ず現場周辺で目撃されているテシンの高級車。そして、殺害された身寄りのない児童たちが、テシンの所有する広大な私有地の境界線上で、ある悍ましい『児童供犠契約』の生贄にされているという、村人たちの震えるような噂。
「あのチョ・テシンという男がすべての黒幕だ。間違いない。あの男の正体は――」
松井が下関の事件との関連性を突き止め、キム本部長に逮捕状の請求を激しく迫ったその翌日、事態は最悪の形で急転直下する。
「連続殺人犯が自首した。これ以上の捜査は不要だ」
キム本部長から投げつけられた冷淡な言葉に、松井は我が耳を疑った。
薄暗い取調室の椅子に座らされていたのは、村の片隅でひっそりと暮らしていた、重度の知的障害を持つ青年だった。青年の顔は、ヤクザ級の凄惨な拷問を受けたことが一目で分かるほど紫色に膨れ上がり、怯えた動物のようにガタガタと全身を震わせていた。
青年の前には、一枚の白薄い「書類」が置かれていた。
そこには、青年がすべての罪を認め、自らの意思で自首した旨が整然とした文字で記された供述書。そしてその末尾には、青年の指から溢れ出る鮮血で、べったりと**【血の手形(拇印)】**が捺されていた。
「これを見てみろ、松井刑事。本人の明白な自白、そして動かぬ証拠の血の手形だ。これで忌々しい事件は完全解決だ」
キム本部長は満足げに、インクの入った書類を手のひらで叩いた。
「ふざけるなッ!」
松井は机を激しく叩きつけ、激昂した。
「こんなものは拷問によって無理矢理捺させた偽造書面だ! 彼は文字の読み書きすらできない! 犯行時刻には明確なアリバイもある! なぜ、こんな無関係な人間に罪を被せるんだ!?」
「彼が『書類に同意した』と言っているんだよ、松井刑事」
背後から、あの凍りつくような冷ややかな声が響いた。
いつの間にか取調室の鉄扉を開けて立っていたのは、チョ・テシンだった。
「チョ・テシン……! 貴様、裏で警察組織を動かして、何を仕組んだ!?」
松井が椅子を蹴って掴みかかろうとするが、周囲の巨漢の警察官たちに力ずくで床へ押さえつけられる。テシンは松井の怒声を完全に無視し、机の上の「血の手形の供述書」を、まるで極上の芸術品でも眺めるかのように愛おしそうに見つめた。そして、冷たく微笑むように日本語で一言、言い放った。
「現世のルールというのはね、真実が何かなど求めてはないんよ。ただ、誰もが反論できない『書類上の和解』があれば、それで世界は満足して閉じるんじゃ」
テシンにとって、これは幼少期に親兄弟から叩き込まれた不条理なシステムの、完璧なる再現であり、復讐であった。
悪いことをしたから罰を受けるのではない。罰を与えるための書類(大義名分)さえ揃っていれば、どれほど理不尽な暴力であっても、社会はそれを「正義」として盲目的に承認するのだ。かつて、自分が裸のまま冷たい冷雨の中に放り出された、あの夜のように。
テシンは流暢な韓国語に切り替え、キム本部長に向き直った。
「キム本部長、これで村の治安は守られましたな。書類をただちに本庁へ回しなさい」
「はっ、ただちに!」
キム本部長は、テシンに調教された犬のように深く頭を下げた。警察という国家権力そのものが、テシンの莫大な富と、反論を許さない『書類の壁』によって、完全にハッキングされていた。
「不服かね、松井刑事」
テシンは床に組み伏せられ、激しく暴れる松井の目の前までゆっくりと歩み寄り、その能面の顔を近づけた。テシンの濁った瞳の奥に、絶望に歪む松井の顔が映り込む。
「これがわしの作ったシステムじゃ。お前の薄っぺらな『正義』など、この書類一枚でいくらでも圧殺できる。お前には、わしを裁くどころか、触れることすらできんのんよ」
松井は床に血を吐きながら、テシンの足元を見上げて目をぎらつかせた。
「……書類が世界を閉じるなら、俺がお前のそのシステムごと、現世のルールごと、お前を地獄へ引きずり落としてやる。俺の『目』はお前を絶対に逃がさない」
数日後、八つ足村の連続殺人は、青年の単独犯として電撃的に幕を閉じさせられた。青年はそのまま精神病院の奥深くへと送られ、二度と表舞台に姿を現すことはなかった。
同時に、日本の警察庁から松井に対して、即座の帰国命令が下る。テシンの息がかかった日韓の上層部が、松井のこれ以上の暴走を恐れて手を回したのだ。
金浦空港から羽田へと向かう航空機の中、エンジンの重い重低音が響く機内で、松井は悔しさと無力感で、血が滲むほど拳を強く握りしめていた。手のひらには、半月型の深い爪跡が残っていた。
国家権力すらも書類一枚で意のままに操る、あの不気味な能面の怪物、チョ・テシン。
(……絶対に、引きずり下ろしてやる。たとえ法律がお前を護ろうとしても、俺が、お前を殺す)
松井の瞳の奥で、正義の光が静かに死に、復讐の激しい業火が灯った。彼が一線を越えた「復讐の狂犬」へと変貌していく、長い暗黒の旅路の始まりだった。
一方、京畿道の豪邸では、テシンが新たな「書類」に細い万年筆でサインをしていた。
一九八七年、冬。次なる舞台は、日本の長野県松本市。自分を追ってくるであろう松井を、さらに深い絶望の地獄へと突き落とすための、悍ましい『人間爆弾ゲーム』の設計図が、テシンの脳内で完璧に完成しつつあった。
農村連続殺人事件のモデルになった事件:華城連続殺人事件




