第2話:名前を奪う男
一九七六年。玄界灘の荒波を越え、夜陰に乗じて釜山港の片隅に降り立った大橋徹がたどり着いたのは、軍事政権下の冷徹な緊迫感が街を支配する、異国の地であった。
国境を越えた彼に、もはや名前はない。戸籍を持たない不法滞在者。それが今の徹の、剥き出しの現実だった。
見つかれば即座に強制送還、あるいは北の「スパイ」と見なされ、過酷な尋問の末に南山の地下深くで音もなく消される。そんな綱渡りの日々の中、徹は京畿道の古びた下宿に身を潜め、血を吐くような執念で現地の言語を脳細胞に刻み込みながら、ひたすらその歪んだ社会を「観察」し続けていた。
やがて、徹の能面のような顔の奥で、一つの確信が形を成した。
人間という脆弱な生き物は、目の前にいる生身の人間そのものではなく、白紙の上に厳格に並んだ**【書類に書かれたインクの文字】**だけを盲信して生きている。そういう奇妙な構造の上に、この世界は成り立っているのだと。
どれほど素性の怪しい怪物であっても、公的な印鑑とサイン、そして「戸籍」という紙切れ一枚さえ手に入れれば、社会はその存在を『正しいもの』として平然と受け入れる。逆に、どれほど清らかな魂を持った人間であっても、書類の証明がなければ、この現世においては存在しないも同然に扱われる。
(現世のルールなど、所詮はその程度の、穴だらけの脆弱なシステムだ)
暗い室内で、徹の瞳の奥に冷たい計算の火が灯った。
「大橋徹」という、かつて実の家族からクズと定義され、泥水の中で罵倒された呪われた名前を、ここで完全に捨てる。そして世界のバグを突き、誰の手も届かない絶対的な『身分』をこの手で奪い取るのだ。
怪物の鋭い眼光が、獲物を求めて動き始めた。
*
一九八〇年代初頭。徹の冷徹なまなざしは、京畿道の広大な農村地帯に君臨する、ある没落しかけた名士の家系に留まった。
その一族の背後には、他人に言えない底黒い「歪み」があった。
一族の長男の名は、チョ・テシン(조태신)。
ソウルの闇カジノで放蕩の限りを尽くし、天文学的な額の借金を背負い込み、親族からも完全に突き放された、一族の「お荷物」であり、呪われた「出来損ない」であった。
徹は、そのチョ・テシンの背後に、音もなく、影のように忍び寄った。
かつて下関の暗い倉庫で、自分自身が「一族のクズ」としていたぶられていたからこそ、テシンを取り巻く家族の冷徹な憎悪や、テシン自身が抱く狂気的な孤立感が、痛いほど、手に取るように分かったのだ。
徹はテシンの莫大な債権を裏で密かに買い漁り、彼の退路をじわじわと断ち、精神的に徹底的に追い詰めていった。そして、ある猛烈な嵐の夜、徹は逃げ場を失ったテシンの前に姿を現した。その顔は、やはり一切の感情を排した、無機質な能面のままであった。
徹の口から、完璧に調律された、しかしどこか歪なイントネーションの韓国語が漏れる。
「のぉ、兄ちゃん。お前のその名前を、わしにくれ」
テシンは最初、哀れな密航者の世迷言だと嘲笑った。だが、徹が机の上に静かに差し出したのは、精巧に偽造された「債務弁済契約書」と、一族の土地を担保にした「書類上の合意書」であった。
さらに徹の細い指は、テシンが一族から永久に放逐され、司法的にも破滅するような、決定的な「秘密の書面」を握りしめていた。
「これを一族の長老に突きつければ、お前は本当の死人になる。だが、この書類にサインし、わしと『契約』を結べば、お前の借金は現世からすべて消える。お前は自由だ」
それは、まともな理性を残した人間ならば絶対に呑まない、悪魔の欺罔(詐欺)であった。だが、極限の恐怖と飢えに脳を焼かれたテシンは、震える手で万年筆を握り、自らの署名と、赤い拇印――血の手形を書類に捺した。
徹の脳内に、カチリと音がして「書類上の和解」が成立した瞬間だった。
契約が成立した翌日、本物のチョ・テシンは、この世から影も形も消え失せた。彼がどの肥溜めに沈んだのか、あるいはどの肥沃な土壌の栄養となったのか、それを知る者は徹以外に誰もいない。
残されたのは、インクの乾いた、完璧な「書類」だけであった。
司法も、行政も、銀行の冷徹な窓口も、徹が提示した「チョ・テシンのサインと拇印がある書類」の壁を前に、何一つ疑いを持たなかった。
親族たちは、目の前に現れた長男が、以前とは似ても似つかない「無表情な能面」であることに強烈な違和感を覚えながらも、法的に完成された書類の威光と、徹の背後にちらつく闇社会の影を前に、ただの一言も反論できなかった。
こうして、下関の出来損ないである「大橋徹」は、書類の上で完全に死亡した。
衣服を変え、言語を変え、書類を書き換えることで、彼は京畿道の大地主、「チョ・テシン」へと完璧な脱皮を遂げたのだ。
新しく手に入れた豪邸の、巨大な鏡の前で、男は自らの顔をじっと見つめた。
そこに映るのは、かつて冷たい冷雨の中で裸のまま正座させられていた、憐れな少年ではない。国家のシステムをハッキングし、他人の人生を丸ごと喰らい尽くしてのけた「怪物」の姿だった。
だが、テシンの魂の乾きは、それだけでは到底収まらなかった。
身分を奪う程度では、かつて自分を暗闇に閉じ込め、邪悪な目で監視し続けた現世への復讐としては、あまりにも生ぬるすぎる。
「わしをクズと定義した世界に、今度はわしのルール(システム)を叩き込んでやる」
一九八五年。チョ・テシンとなった男は、自らの支配力を不可侵のものにするため、ある悍ましい『構造』を思いつく。
国家の戸籍からこぼれ落ちた、存在しない子供たち。その命を書類上の数字として処理し、自らの権力を増幅させるための贄とする――それこそが、京畿道の不気味な寒村、八つ足村を舞台にした**『児童供犠契約』**の始まりであった。
*
一九八六年、十月。
京畿道・八つ足村の、視界を白く遮る深い霧の中に、一人の若い日本の刑事が立っていた。
警察庁から臨時の合同捜査官として派遣されてきた男――松井浩亮。
「……これが、農村連続殺人事件の現場か」
松井は泥濘に膝をつき、激しい怒りに歯の根を噛み締めた。彼の目の前には、無残にも左右の眼球を完全に抉り取られ、虚無の空洞を天井に向けた、幼い子供の遺体があった。
一九七五年、山口県下関市。松井が新人時代に捜査に加わり、犯人を逃がしたあの『大橋邸一家殺人事件』の現場と、あまりにも酷似した「署名」。松井は、執念の糸だけを頼りに、この異国の霧深き村まで這いつくばってきたのだ。
昭和の熱血と、執念の正義感を瞳に宿した松井は、しかし、まだ知らなかった。
自分がこれから対峙する相手が、ただの狂人ではなく、現世の警察組織や国家の壁すらも「書類」という名のハッキングシステムで圧殺する、おぞましき怪物の完成形であることを。
行く手を遮る濃霧の向こうから、漆黒の高級車が、音もなく滑り込んできた。
ゆっくりと下がっていくスモークガラスの向こう側。
冷徹な能面の顔をしたチョ・テシンが、獲物を品定めするような邪悪な『目』で、静かに松井浩亮を見つめ返していた。
農村連続殺人事件のモデルになった事件:華城連続殺人事件(韓国の未解決事件である)




