第1話:能面の誕生
激しい雨が、世田谷の閑静な住宅街を無慈悲に濡らしていた。
深夜二時。高い生垣に囲まれた高名な弁護士邸の門前に、数台のパトカーが赤色灯を狂ったように明滅させている。
「……うわっ」
若い鑑識官がリビングに一歩足を踏み入れた瞬間、喉の奥で絶句し、たまらず口元を押さえた。
凄惨、という言葉すら生ぬるい。床に転がっている四つの肉塊――この家の主である弁護士、その妻、そして二人の幼い子供たちの遺体には、共通する「異常な損壊」があった。
顔面の中心、本来そこにあるべき二つの球体が、跡形もなく破壊されている。
目であった。
抉られ、潰され、どす黒い血の海と化した眼窩が、虚無の空洞となって天井を見つめていた。全員が、生きたまま両目を潰されている。
「……警部、これを見てください」
ベテラン捜査官が手袋をはめた指で指し示したのは、血飛沫を免れたダイニングテーブルの上だった。そこにぽつんと、時代遅れなカセット式のボイスレコーダーが置かれている。
カチリ、と重い音がして、テープが回り始めた。
ザーザーという、今夜の雨によく似た激しいノイズの向こうから、それは聞こえてきた。
高低のまるでない、抑揚を完全に失った、まるで乾いたプラスチックのような男の声。
『そがな目でわしを見んでぇや。――恨むなら、生まれてきたことを恨むんで? の?』
奇妙な、ねっとりとした西日本の訛り。
その場にいた捜査官たちの背筋に、一瞬で凍りつくような悪寒が走った。
この怪物の正体を知る者は、この時、日本警察にはもう誰も残っていなかった。
時計の針が、一気に四十四年の過去へと巻き戻る。
*
一九七五年、冬。山口県下関市。
二十歳の大橋徹の顔には、何の表情もなかった。
眉も動かなければ、口元も歪まない。三年前に絶望の果てに自殺を図り、生き残ってしまったあの日から、彼の顔は周囲から「無機質な能面」と怯えられ、蔑まれていた。
だが、徹を本当に殺し続けていたのは、学校のいじめではない。家庭という名の、逃げ場のない密室だった。
「この、のろま! カス! お前なんか生まれてこなけりゃ良かったんじゃ!」
激しい罵声とともに、硬い竹刀が徹の背中に振り下ろされる。
痛みの衝撃が脳を突き抜けるが、徹の能面は崩れない。それがさらに、実の母親と、血を分けた兄弟たちの狂気を煽った。
「悪いことをしたから罰を与える」
それがこの家のルールだった。宿題を忘れた、手際が悪かった、兄弟の序列を乱した――理由など、本当は何でもよかった。彼らは徹という「出来損ない」をいたぶる、正当な大義名分が欲しいだけなのだ。
なにかにつけて殴られ、暗い倉庫に監禁され、「警察に突き出すぞ」と脅される日々。
何より徹が耐え難かったのは、自分を人間とも思わず、まるで汚物か害虫を見るように見下してくる、親兄弟の「目」だった。
その無数の邪悪な目が、徹の皮膚を四六時中、焼き尽くすように監視している。
そして、その夜、臨界点が訪れた。
「家から出ていけ! 汚らわしい!」
飢えに耐えかねて弟の食べ残しを口にした、ただそれだけのことで、徹はすべての衣服を剥ぎ取られ、裸のまま激しい雨が打ちつける庭先へと放り出された。
冷たい泥水が急速に体温を奪っていく。寒さで歯の根が合わず、ガタガタと身体を震わせながら、徹は泥の中に正座させられていた。
暗闇の中、冷雨に打たれながら、徹はガラス窓の向こうを見た。
暖かい部屋の中で、テレビを見て笑い合っている家族の姿がある。時折、彼らは窓の外の徹をチラリと見ては、歪んだ嘲笑を浮かべた。
あほ、バカ、死ね、クズ。
昼間に浴びせられた言葉が、激しい雨音に混じって脳内でリフレインする。
(……ああ、そうか)
徹の中で、何かが静かに、決定的に切り替わった。
壊れたのではない。現世のルールが消え去り、徹だけの新しい「システム」が脳内に確立されたのだ。
彼らは、悪いことをしたからわしを罰しているのではない。わしが存在していること自体が、彼らにとっての悪なのだ。
だったら、縁を切るなどという意味のない逃走ではなく――わしを『クズ』と定義するあの邪悪な目を、この世からすべて消し去ればいい。
徹の能面の奥の瞳が、漆黒の虚無に染まった。
深夜二時。雨音だけが響く家の中に、裸の徹が静かに戻ってきた。
切り刻まれずに唯一残っていた、薄汚れたチェック柄のシャツとジーンズに身を包む。
徹は台所に向かい、もっとも重く、研ぎ澄まされた牛刀を手に取った。
足音は、一切ない。
徹はまず、実の母親の枕元に立った。
気配を察したのか、母親がうっすらと目を開ける。暗闇の中、能面の顔で自分を見下ろす徹の姿に、母親の目が恐怖で大きく見開かれた。
その「目」に向けて、徹は迷わず刃を突き立てた。
「ギャアアアアアアアア――ッ!?」
激痛の悲鳴が屋敷に響き渡る。だが、徹の手元は機械のように正確だった。左右の眼球を無慈悲に破壊し、狂乱する母親の喉を容赦なく掻き切る。
一滴の躊躇もない。
「な、なんだ!? お母さん!?」
「おい徹、お前、何をしよん――」
騒ぎに気づいて起きてきた双子の兄、そして妹。彼らが恐怖に顔を歪め、徹を凝視する。
徹はそのすべてを、あらかじめ決まっていたルーティンをこなすように、一人ずつ組み伏せ、その目を確実に潰していった。床はまたたく間に脂ぎった血の海へと変わる。
「あ、あがっ……やめてくれ、徹、頼む……!」
最後に生き残った弟が、血の海の中で這いつくばり、命乞いをした。
両目を潰され、視力を失った弟は、暗闇の中でただガタガタと震えている。いつもは「クソ徹」と呼んでいた弟が、生まれて初めて「お兄ちゃん」と縋りついてきた。
恐怖のあまり失禁し、媚びへつらうその姿は、徹にとってただひたすらに不快で、滑稽だった。
もうすぐ楽になる。待っときんさい。
徹は、命乞いをする弟の耳元に、そっと顔を近づけた。
生まれて初めて、心底愉しそうな、しかし凍りつくような低い声で囁く。
「そがな目でわしを見んでぇや。――恨むなら、生まれてきたことを恨むんで? の?」
無造作に突き立てられた指が、弟の最後の抵抗をねじ伏せ、その眼窩を破壊した。
絶叫が、雨の夜に溶けて消えた。
*
翌朝。下関の港には、依然として激しい雨が降り続いていた。
遠くでパトカーのサイレンが、何重にも重なって鳴り響いている。大橋邸に踏み込んだ警察官たちは、ただその凄惨な光景の前に言葉を失い、静まり返っていた。居間の片隅では、ただ激しい雨の音だけが、虚しく響いていた。
一方で、下関港の片隅。
フェリーのタラップを上り、暗い密航船の船倉へと潜り込む一人の男がいた。
その男の顔は、やはり冷徹な能面のままであったが、その胸中には、現世の不条理なシステムを破壊し尽くすための、冷たい炎が宿っていた。
目指すは、対岸の国――韓国。
国家の不完全な「書類」と「戸籍」の隙間を突き、自らがルールそのものとなるために。
「チョ・テシン」という名の怪物が今、漆黒の海へと漕ぎ出した。
モデルになった事件:なし




