第14話:能面と鏡
二〇二六年、二月二十日。深夜。
浅間山の旅館、一階ロビー。
二人の老人が、血の海を挟んで向かい合っていた。
松井浩亮、七十代後半。トカレフを両手で構え、その銃口をチョ・テシンの額へと向けている。引き金にかかった指は、まだ微かに震えていた。
チョ・テシン、七十一歳。片手を壁につき、口の端に血を伝わらせながら、それでも能面の顔のまま、階段の最後の一段を降りきった。懐にニューナンブがある。だが、その手は動かない。
外の吹雪が、旅館の壁を低く唸らせている。
それ以外の音は、何もなかった。
最初に口を開いたのは、テシンだった。
「撃たんのか」
松井は答えなかった。トカレフの銃口が、わずかに揺れる。
「なんや、撃てんのんか」
また、答えない。
テシンは壁から手を離し、ゆっくりと一歩を踏み出した。松井との距離が、三メートルになる。血を踏む、ぐちゃりという音がした。
「お前は今、わしを撃つべきか撃たざるべきか、現世のルールに従って考えよるんじゃろ」
テシンの声は、相変わらず高低がない。しかしその息に、微かな喘鳴が混じっていた。
「違う」
松井が、初めて答えた。声は静かだった。
「じゃあ何を考えよる」
「お前が、なぜまだ笑っていないのかを考えていた」
テシンの足が、止まった。
松井はトカレフを構えたまま、テシンの顔を見つめた。
四十年、追い続けてきた顔。下関の大橋徹の顔写真と、八つ足村の霧の中で初めて見たあの能面が、今ようやく、至近距離で重なり合っている。
「お前は八つ足村でも、松本でも、浦和でも、渋谷でも、世田谷でも、笑わなかった。今夜初めて笑った。あの哄笑が、お前の本当の姿だと思っていた」
「……それで?」
「だが今のお前は笑っていない。なぜだ」
テシンは答えなかった。
その沈黙が、松井には答えに聞こえた。
「お前は完成したかったんじゃない。お前は……終わりたかったんだ」
長い静寂が落ちた。
テシンは、ゆっくりと視線を床へと落とした。血の海の中に、自分の足跡が点々と続いている。一九七五年の下関から始まった足跡が、この浅間山の旅館のロビーまで、五十年かけてここへ辿り着いた。
テシンの喉の奥で、何かが動いた。
笑いではない。
嗚咽でもない。
ただ、乾いた息が漏れた。
「……賢いのぉ、松井」
テシンは顔を上げた。能面は崩れていない。だが、その奥の瞳の色が、松井にはわずかに変わって見えた。
「お前は四十年、わしを追いかけながら、わしのことをずっと考え続けてきた。わしよりも、わしのことをよく知っとるかもしれんのぉ」
「お前が俺を作ったんだ」
松井は言った。
「木村を殺して、俺を怪物にした。だから俺はお前のことしか考えられなくなった」
「……そうじゃ」
「お前も同じだろう」
テシンの目が、細くなった。
「お前も、あの夜からずっと、親兄弟のことしか考えられなかった。あの連中がお前を作った。そしてお前が俺を作った」
松井はトカレフを構えたまま、一歩踏み出した。
「俺たちは同じ穴の怪物だ、テシン。お前が言った通りだ。だが」
松井の指が、引き金から離れた。
「俺はここで降りる」
テシンの能面が、初めて揺れた。
揺れた、と松井には見えた。ほんの一瞬、眉の端が、ほとんど知覚できないほどわずかに動いた気がした。
「……何をするつもりじゃ」
「お前を警察に引き渡す」
「死刑になるぞ」
「分かっている」
「わしは書類一枚で、また現世のシステムを――」
「もうお前にその力はない」
松井は静かに言った。
「震える手でライターも拾えないお前に、書類を操る力が残っているか。俺にはお前の顔が見える。テシン、お前の能面は、もうひびが入っている」
テシンは答えなかった。
松井はトカレフをコートのポケットへと戻した。丸腰になった松井が、テシンとの距離を詰めていく。一メートル。五十センチ。
テシンの手が、懐のニューナンブへと動いた。
松井は止まらなかった。
テシンの指が、ニューナンブの銃把を握った。
だが、引き抜かなかった。
松井が目の前に立っていた。トカレフも持たず、杖も持たず、ただ七十代の老いた身体で、テシンの前に立っていた。
その目を、まっすぐに見つめていた。
怒りではない。憎しみでもない。
松井の目には、ただ静かな何かがあった。テシンには、それが何なのか分からなかった。生まれてから一度も見たことのない種類の目だったからだ。
(そがな目で……わしを、見るな)
テシンの唇が、かすかに動いた。声は出なかった。
懐のニューナンブが、ゆっくりと床へと落ちた。
テシンの指が、銃把を手放していた。
テシン自身も、なぜそうしたのか分からなかった。
ただ、その目を前にして、引き金を引くという行為が、どこか遠い場所のことのように感じられた。
松井は、テシンの腕を掴んだ。
老いた二人の身体が、血の海の中で向かい合っている。
「チョ・テシン。お前を、現世に引き渡す」
テシンは抵抗しなかった。
ただ、松井の肩越しに、旅館の壊れた窓の向こうの、白い吹雪を見つめていた。
やがて、テシンの口が開いた。
「……松井」
「何だ」
「わしは、終われるか」
松井は答えるまでに、少し時間がかかった。
「それは俺が決めることじゃない」
テシンは、それきり黙った。
松井はテシンの腕を引いて、旅館の正面玄関へと向かって歩き始めた。
二人の老人の足跡が、血の海の上に重なって続いていく。
玄関の引き戸を開けると、外の冷気が一気に流れ込んできた。
サーチライトの光が、二人を白く照らし出した。
「手を上げろ! 動くな!!」
包囲していた警官隊が、一斉に銃口を向けてくる。怒号と警告が飛び交う中、松井は片手を上げ、もう片方の手でテシンの腕を掴んだまま、ゆっくりと雪の上を歩いた。
「チョ・テシンを、連行しろ」
松井の声は、驚くほど穏やかだった。
警官隊が雪崩れ込んでくる。テシンの両腕が後ろに回され、手錠がかけられる。テシンは抵抗しなかった。能面の顔のまま、ただサーチライトの光を正面から受けていた。
その顔を、松井は最後にもう一度だけ見た。
能面は、まだそこにあった。
しかし、ひびが入っているように見えた。
見えた、と松井は思った。
チョ・テシンが連行されていく。
雪の中を、警官たちに囲まれながら、老いた怪物がゆっくりと歩いていく。
松井は玄関の前に立ち尽くし、その背中を見送った。
杖がないことに、今更気づいた。どこかに捨てたのだ。それでも、足は立っていた。
懐のトカレフが、コートの内側で冷たく重かった。
一九八七年の雪の夜から、三十九年間、肌身離さず持ち歩いてきた拳銃。
松井はそれを取り出し、しばらく眺めた。
そして、雪の上に、静かに置いた。
拾わなかった。
浅間山の夜明けが、白く、静かに始まろうとしていた。




