表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
チョ・テシンという男  作者: 水前寺鯉太郎


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/15

第14話:能面と鏡

二〇二六年、二月二十日。深夜。

 浅間山の旅館、一階ロビー。

 二人の老人が、血の海を挟んで向かい合っていた。


 松井浩亮、七十代後半。トカレフを両手で構え、その銃口をチョ・テシンの額へと向けている。引き金にかかった指は、まだ微かに震えていた。


 チョ・テシン、七十一歳。片手を壁につき、口の端に血を伝わらせながら、それでも能面の顔のまま、階段の最後の一段を降りきった。懐にニューナンブがある。だが、その手は動かない。

 外の吹雪が、旅館の壁を低く唸らせている。

 それ以外の音は、何もなかった。

 最初に口を開いたのは、テシンだった。


「撃たんのか」


 松井は答えなかった。トカレフの銃口が、わずかに揺れる。


「なんや、撃てんのんか」


 また、答えない。

 テシンは壁から手を離し、ゆっくりと一歩を踏み出した。松井との距離が、三メートルになる。血を踏む、ぐちゃりという音がした。


「お前は今、わしを撃つべきか撃たざるべきか、現世のルールに従って考えよるんじゃろ」


 テシンの声は、相変わらず高低がない。しかしその息に、微かな喘鳴が混じっていた。


「違う」


 松井が、初めて答えた。声は静かだった。


「じゃあ何を考えよる」

「お前が、なぜまだ笑っていないのかを考えていた」


 テシンの足が、止まった。

 松井はトカレフを構えたまま、テシンの顔を見つめた。

 四十年、追い続けてきた顔。下関の大橋徹の顔写真と、八つ足村の霧の中で初めて見たあの能面が、今ようやく、至近距離で重なり合っている。


「お前は八つ足村でも、松本でも、浦和でも、渋谷でも、世田谷でも、笑わなかった。今夜初めて笑った。あの哄笑が、お前の本当の姿だと思っていた」

「……それで?」

「だが今のお前は笑っていない。なぜだ」


 テシンは答えなかった。

 その沈黙が、松井には答えに聞こえた。


「お前は完成したかったんじゃない。お前は……終わりたかったんだ」


 長い静寂が落ちた。

 テシンは、ゆっくりと視線を床へと落とした。血の海の中に、自分の足跡が点々と続いている。一九七五年の下関から始まった足跡が、この浅間山の旅館のロビーまで、五十年かけてここへ辿り着いた。

 テシンの喉の奥で、何かが動いた。


 笑いではない。

 嗚咽でもない。

 ただ、乾いた息が漏れた。


「……賢いのぉ、松井」


 テシンは顔を上げた。能面は崩れていない。だが、その奥の瞳の色が、松井にはわずかに変わって見えた。


「お前は四十年、わしを追いかけながら、わしのことをずっと考え続けてきた。わしよりも、わしのことをよく知っとるかもしれんのぉ」

「お前が俺を作ったんだ」


 松井は言った。


「木村を殺して、俺を怪物にした。だから俺はお前のことしか考えられなくなった」

「……そうじゃ」

「お前も同じだろう」


 テシンの目が、細くなった。


「お前も、あの夜からずっと、親兄弟のことしか考えられなかった。あの連中がお前を作った。そしてお前が俺を作った」


 松井はトカレフを構えたまま、一歩踏み出した。


「俺たちは同じ穴の怪物だ、テシン。お前が言った通りだ。だが」


 松井の指が、引き金から離れた。


「俺はここで降りる」


 テシンの能面が、初めて揺れた。

 揺れた、と松井には見えた。ほんの一瞬、眉の端が、ほとんど知覚できないほどわずかに動いた気がした。


「……何をするつもりじゃ」

「お前を警察に引き渡す」

「死刑になるぞ」

「分かっている」

「わしは書類一枚で、また現世のシステムを――」

「もうお前にその力はない」


 松井は静かに言った。


「震える手でライターも拾えないお前に、書類を操る力が残っているか。俺にはお前の顔が見える。テシン、お前の能面は、もうひびが入っている」


 テシンは答えなかった。

 松井はトカレフをコートのポケットへと戻した。丸腰になった松井が、テシンとの距離を詰めていく。一メートル。五十センチ。

 テシンの手が、懐のニューナンブへと動いた。

 松井は止まらなかった。


 テシンの指が、ニューナンブの銃把を握った。

 だが、引き抜かなかった。

 松井が目の前に立っていた。トカレフも持たず、杖も持たず、ただ七十代の老いた身体で、テシンの前に立っていた。


 その目を、まっすぐに見つめていた。

 怒りではない。憎しみでもない。

 松井の目には、ただ静かな何かがあった。テシンには、それが何なのか分からなかった。生まれてから一度も見たことのない種類の目だったからだ。


(そがな目で……わしを、見るな)


 テシンの唇が、かすかに動いた。声は出なかった。

 懐のニューナンブが、ゆっくりと床へと落ちた。

 テシンの指が、銃把を手放していた。

 テシン自身も、なぜそうしたのか分からなかった。


 ただ、その目を前にして、引き金を引くという行為が、どこか遠い場所のことのように感じられた。

 松井は、テシンの腕を掴んだ。

 老いた二人の身体が、血の海の中で向かい合っている。


「チョ・テシン。お前を、現世に引き渡す」


 テシンは抵抗しなかった。

 ただ、松井の肩越しに、旅館の壊れた窓の向こうの、白い吹雪を見つめていた。

 やがて、テシンの口が開いた。


「……松井」

「何だ」

「わしは、終われるか」


 松井は答えるまでに、少し時間がかかった。


「それは俺が決めることじゃない」


 テシンは、それきり黙った。

 松井はテシンの腕を引いて、旅館の正面玄関へと向かって歩き始めた。

 二人の老人の足跡が、血の海の上に重なって続いていく。

 玄関の引き戸を開けると、外の冷気が一気に流れ込んできた。

 サーチライトの光が、二人を白く照らし出した。


「手を上げろ! 動くな!!」


 包囲していた警官隊が、一斉に銃口を向けてくる。怒号と警告が飛び交う中、松井は片手を上げ、もう片方の手でテシンの腕を掴んだまま、ゆっくりと雪の上を歩いた。


「チョ・テシンを、連行しろ」


 松井の声は、驚くほど穏やかだった。

 警官隊が雪崩れ込んでくる。テシンの両腕が後ろに回され、手錠がかけられる。テシンは抵抗しなかった。能面の顔のまま、ただサーチライトの光を正面から受けていた。


 その顔を、松井は最後にもう一度だけ見た。

 能面は、まだそこにあった。

 しかし、ひびが入っているように見えた。

 見えた、と松井は思った。

 チョ・テシンが連行されていく。

 雪の中を、警官たちに囲まれながら、老いた怪物がゆっくりと歩いていく。


 松井は玄関の前に立ち尽くし、その背中を見送った。

 杖がないことに、今更気づいた。どこかに捨てたのだ。それでも、足は立っていた。

 懐のトカレフが、コートの内側で冷たく重かった。


 一九八七年の雪の夜から、三十九年間、肌身離さず持ち歩いてきた拳銃。

 松井はそれを取り出し、しばらく眺めた。

 そして、雪の上に、静かに置いた。

 拾わなかった。

 浅間山の夜明けが、白く、静かに始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ