第13話:着剣の儀式
二〇二六年、二月二十日。夜。
浅間山の旅館、二階。
チョ・テシンは、バッグの残弾を静かに確認した。
指先が震えて、薬莢を床に落とす。拾う気力もなく、ただ数だけを確認する。
足りない。
もうこれでは、外の警察を抑え込むことはできない。だが、テシンの能面に、焦りの色は一切なかった。
バッグの底を漁る震える指が、硬い金属の感触を捉えた。
30式銃剣。銃器販売店の展示ケースに、払い下げの記念品として保管されていた一本。テシンはそれを89式小銃の銃口へと装着し、カチリという音を静かに確認した。
残弾が尽きても、これがある。
指先の震えが、わずかに収まった気がした。
床には夥しい量の空薬莢と、テシン自身が吐いた血が混ざり合って広がっている。肺の奥から、また熱いものが込み上げてくる。テシンは口元を白いハンカチで押さえ、静かに喀血した。ハンカチが、真っ赤に染まる。
それを一瞥し、無造作にポケットへと戻した。
階段の下から、足音が聞こえ始めた。
生き残った警官隊が、再び上がってこようとしている。
テシンは立ち上がった。膝が、軋む。
89式小銃を、震える両手でしっかりと構える。銃剣の刃が、薄暗い部屋の中で鈍く光った。
走らない。
テシンは階段の上で、ただ待った。
先頭の警官が踊り場に足を踏み入れた瞬間、その目がテシンの顔を捉えた。
動きが、止まった。
なぜ止まったのか、警官自身にも分からなかったはずだ。相手は七十一歳の、血を吐いた老人だ。防弾装備を持つ自分たちの方が、どう考えても優位なはずだった。
だが、能面の顔が、暗闘の奥から自分を見つめ返している。その顔に、何もない。怒りも、恐怖も、躊躇も、一切何もない。
その「何もなさ」が、警官の足を縫いつけた。
テシンは一歩、踏み出した。
刃が、防弾ベストの脇の隙間を正確に抉った。
テシンの顔は、やはり能面のままだった。
「あ……」
崩れ落ちる警官の身体を、テシンは片手で支えるように受け止め、静かに床へと横たえた。まるで、荷物を丁寧に置くような動作だった。
そして屈み込み、倒れた警官の顔へと、震える指を伸ばした。
――両目を、潰す。
絶叫が、旅館の二階に響き渡った。
「な、なんだ!?」
踊り場の下で待機していた別の警官が、悲鳴に反応して駆け上がってくる。
だが、テシンはすでに次の一歩を踏み出していた。
銃剣の刺突は、速くない。
老いた肉体が刻む歩調は、むしろ遅い。だが、その遅さの中に、迷いという概念が存在しない。
二人目の警官が盾を構えて突進してくる。テシンは盾の端を左手で静かに押しのけ、その隙間に銃剣を滑り込ませた。防弾ベストの肩口の、わずかな隙間を。
ドスッ、という音がして、警官の動きが止まった。
テシンは引き抜き、また屈み込んだ。
また、指を伸ばす。
また、絶叫が響く。
それは儀式だった。
一人ずつ、丁寧に、確実に。
下関の雨の夜から始まったこの儀式を、テシンは一度たりとも省略したことがない。
三人目の警官は、もう上がってこなかった。
踊り場の上で、テシンはひとり立っていた。
口の端から、血が伝って顎へと落ちる。肺が焼けるように熱い。それでも能面は崩れない。
静寂が戻ってきた。
テシンは壁に手をつき、ゆっくりと息を整えた。高級シガーのモンテクリストに火をつけようとして、ライターを落とした。拾えなかった。
そのまま、壁に背を預けて座り込む。
足元に転がるライターを、ただ見つめた。
(残りは、松井だけだ)
階段の下から、足音は聞こえない。
だが、松井がそこにいることは分かっていた。四十年、追い続けてきた男の気配を、テシンは皮膚で感じることができた。
テシンは力を振り絞って立ち上がり、89式小銃を壁に立てかけた。
銃はもういい。
ニューナンブだけを懐に収め、テシンは一歩ずつ、階段へと向かって歩き始めた。
一階のロビー。
松井浩亮は、動けなかった。
二階が、静かすぎた。
銃声が止んでいた。
代わりに聞こえてきたのは、短い叫び声だった。一つ、また一つ。そして絶叫。それがやがて、完全な静寂へと溶けていった。
松井には、何が起きているのか分かった。
分かったからこそ、足が動かなかった。
血の海と化した畳の上に、松井は立ち尽くしていた。周囲には、息絶えた警察官たちの遺体が転がっている。若い顔が、天井を見つめている。その「目」は、もう何も映さない。
トカレフを構えたまま、松井は階段の下に立った。
そして、聞こえてきた。
階段の上の暗闘から、ゆっくりと、一歩ずつ、足音が降りてくる。
引きずるような音が混じっている。血を踏んでいるのだと、松井は理解した。
トカレフの銃口を、その暗闘へと向ける。
引き金にかかった指が、震えていた。
テシンのものではない。
松井自身の指が。
暗闘の奥から、能面の顔が、ゆっくりと姿を現した。
口の端に血を伝わらせ、片手を壁につきながら、それでも一切の感情を排したまま、チョ・テシンが階段を降りてくる。
二人の老人が、血の海を挟んで向かい合った。
外では、吹雪が唸り続けている。
旅館の中は、死んだように静まり返っていた。
「……テシン」
松井の声は、思ったよりも静かだった。怒鳴るつもりだったのに、声が出なかった。
チョ・テシンは、松井の構えるトカレフを一瞥した。
そして、能面の奥の瞳で、松井の目をまっすぐに見つめ返した。
「そがな目でわしを見んでぇや、松井」
四十年前と変わらない、高低のない、プラスチックのような声だった。




