紫月花の非情――58
――7月。
空気は重く、湿っていた。
窓の外では、雲が低く垂れ込めている。
レイが居なくなって、二ヶ月が過ぎた。
「ねぇ、カイ」
リビングでだらけてると、ハレが俺の顔を覗いた。
近い。
久しぶりに、こんな距離で顔を見た気がした。
「ん? どうした?」
「お菓子、食べたい。」
「え………なんて?」
「お菓子食べたいのっ!カイが作ったやつっ!!」
その声は、少しだけ弾んでいた。
……驚いた。
あの日から、まともに飯も食わねぇし、
駄菓子も食べようとしなかったのに………。
あんなに好きだったくせに、
見向きもしなくなっていたのに。
だからこそ、俺は答えた。
「オッケー、何食いたい?何でも作るぜ?」
「じゃあ、ガトーショコラ!」
少し考えてから出たその答えに、
胸の奥が、じわっと熱くなる。
――ああ、まだ。
でも、ちゃんと戻ってきてる。
俺はすぐに立ち上がった。
キッチンに向かう足取りが、やけに軽い。
こんな感覚、久しぶりだった。
まだ完全にでは無いけど――
ハレは、元に戻りつつある。
そう、思ったら。
作らないわけには、いかなかった。
***
「出来たぞー!!」
「やったぁー!!」
テーブルに作ったガトーショコラを並べると、
ハレは飛んでくる勢いで、テーブルに座った。
フォークで一口掬って、口に運ぶ。
「美味しぃ〜♪」
ハレは、笑った。
いつものように――
だけど、少しだけぎこちなく。
その時。
「おはよぉ~」
欠伸をしながら、部屋から出てきたリオは、
ハレが食べてる姿を見て、目を見開く。
「リオ、遅いよぉ? もう15時だよ?」
ハレは気づきもせず、フォークを運ぶ。
リオは、少し安心したように笑い、ハレの隣に座った。
「カイー、私も食べたい」
「そう言うと思ったー!」
切り分けておいた、リオの分をテーブルに出す。
俺は向かいに座って、何気なくこぼした。
「田舎でカフェでもやるか………」
「カフェ……?」
ハレが食いつく。
「そ、俺が菓子作って、リオがコーヒー淹れて、ハレはウェイター。」
「ウェイター?」
「いらっしゃいませーってやる人」
ぱっとハレは目を輝かせる。
俺の意図を理解したリオが、肘をついて言った。
「あんた、経営できんの?」
思わず、笑った。
「経営は得意なやつに任せるの!」
そう言った瞬間、頭に浮かんだのは――あいつの顔だった。
***
夕方。
――コンコン。
部屋のドアがノックされ、返事をすると扉が開いた。
「リオ、お願いがあって…………。」
私の部屋にやってきたハレは、
風呂上がりのパジャマ姿でやってきた。
「お願い?」
「うん。そのっ、髪の毛………綺麗に、したくて」
ハレは、ヘアアイロンをぎゅっと握っていた。
「なに、ストレートにしたいの?」
私は手招きしながら、ハレをソファに座らせた。
アイロンを受け取って、コンセントに挿す。
「うん。なんか、上手く出来なくて……。ずっと、やって貰ってた、から」
いつの間にか、ハレの口からレイの名前は聞かなくなった。
もう戻って来ないことは、ハレも気づいてるはず。
今日は、カイの作ったお菓子を食べて、
夕飯も、三人で一緒に食べた。
もう寝るだけなのに、
髪を整えたいなんて言い出して――
ハレの中でも整理がつき始めてるのかもしれない。
それでも、顔を見れば分かる。
ハレは、レイが帰ってくるのを、
ずっと待っている。
ハレの髪を整え終えると、
ハレは小さく礼を言って部屋に戻っていった。
私は、直ぐにPCを開いて、キーボードを叩いた。
無機質な音だけが、部屋に響く。
レイが居なくなってから、私はずっと――
あの二人が一緒に暮らせる場所を探していた。
国内は無理に等しい。
庁のセンサーの範囲が広すぎて、
二人をデータベースから消すには時間が足りない。
だから海外で探した。
国から出てしまえば、バレても庁は追えない。
他国で、レイとハレを追うなんて、
無謀なことをするほど、今の庁は暇じゃない。
私は飛行機のチケットを取った。
明日の夕方。
村から一番近い空港の、国際線。
――これで、終わらせる。
***
朝。
俺は、共同リビングのキッチンに立っていた。
昨日の夜、リオから聞いた。
レイとハレ二人の逃げ先を確保したこと。
そして今日――
ハレはリオと現場に向かう体で、レイのところに行く。
夕方の便で、二人は海外へ。
俺は、二人を逃がす為に庁で留守番。
行き先は知ってる。
だけど、二人は逃げ続ける生活になるし、
会いに行く事は難しい。
連絡だって取れない。
だから、最後くらいは、ちゃんと送りたくて。
俺は朝飯を張り切って作っていた。
まぁ、張り切りすぎて多めに作っちゃったけど。
レイと食えって持たせれば、問題は無いだろ。
「おはよ」
最初にリビングに出てきたのは、リオだった。
「よー、飯出来たぞ」
「おー、張り切ったねぇ」
リオはキッチンを見て、苦笑いした。
寂しさと、安心が混ざった様な顔。
時計を見れば七時を過ぎた頃。
「そろそろ起こすかー」
「だね、」
俺達はハレの部屋に向かった。
コンコン。
寝室のドアを叩く。
「ハレー、起きろー」
返事はない。
「……まだ寝てんのか?」
ドアノブに手をかけ、
カチャリと音を立てて、扉が開いた。
――誰もいない。
ベッドは、整えられていた。
まるで最初から、誰も寝ていなかったみたいに。
「……は?」
喉が、うまく動かなかった。
一歩、踏み込む。
部屋の中は、静かすぎた。
昨日まで、あいつがいたはずの場所が、
何も残さず、空っぽになっている。
「おい……ハレ?」
何気なく、クローゼットを開ける。
そこにハレの姿はなくて、
ただ服が、入ってるだけだった。
「……嘘だろ」
心臓が、嫌な音を立てた。
俺とリオは部屋の中を探した。
キッチン、リビング。
ピアノの部屋。
風呂もトイレも、全部探したけど。
ハレの姿は無かった――
その瞬間、嫌な感覚が走った。
ハレは絶対、一人でふらつくタイプじゃない。
――レイがいなくなってからは、余計に。
俺とリオは部屋から飛び出して、エレベーターに乗った。
まず、向かうのは48階のS級専用格納庫。
すぐにエレベーターが止まり、ハレの武器台に走った。
いつもなら、必ずハレ専用の短刀が三本置いてあるはず。
だが、そこには二本しか無かった。
俺達はそのまま階を一つ上がり、情報統括ルームに直行した。
S級の権限で、ある程度のデータにアクセスができる。
リオが素早くPCを操作して、監視カメラの映像ログを開いた。
昨日、夕食を食べた時間帯から映像を早回しで確認していた。
画面右端の時計が、午前二時を指した時。
映像にハレの姿が移った。
正面玄関から外に出るハレ。
制服じゃない。
動きやすい私服――
しかも、背中には小さなリュック。
「……カイ、これ、やばい」
リオの声が震えた。
一度だけ深く息を吸い、そして吐いた。
「……あのバカ、レイを探しに行った」
俺とリオは、マンションを飛び出した。
外は人混み、車、雑踏。
霊対庁の追跡班を動かせば、すぐに見つかる。
……でも、それは同時に、
ハレの動機も全部上にバレて、レイの行動が無駄になる。
だから俺たちは、上には黙って、個人的に探した。
ハレは村の場所を知らない。
名前すら知らないはず。
ハレが行きそうなところ。
レイが行くとハレが思いそうな所を探す。
だが、焦るほどに空振りが続く。
駅も、バスも、商業区も――どこにも痕跡はない。
何も見つからないまま、時間だけが過ぎていった。
リオが呟いた。
「カイ、レイの所行くよ」
「は?」
「もしかしたらハレ、居るかもしれないし。
居なくても――レイならハレを探せる」
駅の方へ足が動いた。
「確かに。」
もう、元に戻ることは出来ない。
時間もかなりヤバい。
頭の奥で最悪の想像が渦を巻く。
そして、
最悪の予感が――
夕方、現実になった。




