紫月花の非情――55
紫月花の非情――55
その日の昼過ぎ。
仕事を片付けて、マンションに戻ると、
共同リビングに、ハレが戻ってきていた。
いつものパーカーに着替え、小走りで近づいてくる。
「レイっ!」
笑顔。
ほんの数日会えなかっただけで、
こんなにも嬉しそうに。
「おかえり」
自然に腕を広げた。
小さな身体が飛び込んでくる。
抱きしめた瞬間、
ハレの体温が、やけに温かく感じた。
ほんの数日会っていなかっただけなのに、
まるで、もっと長く離れていたような錯覚。
腕に収まるその重さを、
確かめるように、ほんの少しだけ強く抱き寄せた。
「……ごめんね、心配かけた?」
ハレが上目遣いで覗き込む。
「少し」
髪を撫でながら、静かに答えた。
ハレは、ほっとしたように笑う。
「よかった……怒ってない?」
「怒ってない」
「ほんと?」
「ああ」
少し間を置いて、ハレが笑う。
「じゃあ、ご飯作ろっか!」
その時、カイが言った。
「あー、俺とリオはこれから現場行くからいいわー。」
「え、そうなの? 私も手伝う?」
リオはハレの背中を軽く叩く。
「いいからいいから、今日はゆっくりしてなって」
「う、うん。ありがと」
俺はハレに手を伸ばした。
「ハレ、今日は部屋でゆっくりしよう」
カイは何も言わず頷いた。
その奥歯を、わずかに噛み締めたまま。
リオも、静かに視線を逸らす。
その表情は、ハレには見えないように。
「……うん!」
ハレだけが、何も知らずに笑っていた。
***
キッチンに二人で並んだ。
ハレが冷蔵庫を開けて、悩む。
「何食べる?」
「なんでもいい」
「じゃぁ、パンケーキにしよう!」
俺がパンケーキを焼いてる間。
ハレはサラダを作り始める。
包丁を握るハレの手元は、まだ少し危なっかしい。
「貸せ」
「やだ!ちゃんとやるの!」
トン。
少しズレた音。
「……危ない」
「大丈夫だってば!」
笑っている。
いつも通りのやり取り。
変わらないはずなのに。
音が違う。
テーブルに作った料理を並べる。
パンケーキとサラダとフルーツだけの、簡単な食事。
ハレと向かいあって座った。
「いただきます!」
同時に手を合わせる。
「……おいしい?」
少し不安そうに聞いてくる。
「ああ」
短く答えると、ハレは嬉しそうに笑った。
ハレが笑うたびに、視線を逸らしたくなる。
見てしまえば、離れられなくなる気がした。
それでも――
目を逸らすことすら、惜しかった。
食事を終えて、片付けをして。
ソファに並んで座る。
気がつけば、時間だけが過ぎていく。
俺達はいつもより長く話した。
他愛ないこと、好きな食べ物、くだらない冗談。
ハレは何度も笑った。
それが、明日消えることを――
ハレはまだ、知らない。
夜。
「ね、レイ」
肩にもたれかかってくる。
「今日、一緒に寝てもいい?」
「……いつも通りだろ」
「うん」
俺とハレは寝室に向かう。
「明日も、一緒にいられるよね?」
布団の中で、ハレが小さな声で尋ねる。
「……ああ」
ほんの一瞬だけ、言葉を飲み込んだ。
違う言葉を、選びかけて。
嘘だとわかっていても、嘘をつくしかなかった。
***
夜更け。
50階の部屋の窓からは、街の灯りが滲むように広がっていた。
その部屋の片隅、ベッドの上でハレは静かに眠っている。
俺は、ベッドに腰掛けたまま、その寝顔を見ていた。
10年前――
名もない少女を抱えて、
燃え落ちる研究所から歩き出したあの日から、今日まで。
一度だって、この手を離したことはなかった。
「……」
長官からの命令は、まだ脳裏に焼き付いている。
村を潰せ。俺は一人で村に留まれ。
ハレとの接触は許さない。
守れなければ――
ハレに首輪を付けることになる。
あの冷たい声と、迷いも罪悪感もない瞳。
ふと、笑みが溢れた。
――昔なら、全部壊して、力ずくで連れて逃げた。
でも今は違う。
ただ衝動に任せれば、必ずハレに火の粉が降りかかる。
彼女の笑顔を奪うのは、この世界そのものだ。
だから、今回は背を向ける。
わざと距離を取る。
俺のいない場所で生きてくれるように。
ベッドに近づき、毛布の端を直す。
寝返りを打ったハレの頬に、髪がふわりとかかった。
指先でそっとそれを払うと、長い睫毛が震えた。
「……レイ?」
寝ぼけた声。
すぐに柔らかく微笑む。
「なんでもない。……寝ろ」
「うん……」
再び目を閉じたハレの呼吸が、ゆっくりと整っていく。
ゆっくりと顔が落ちていき、額に触れる寸前で止めた。
「……お前の世界は、俺が守る」
かすれるほど小さな声。
それは、もう彼女には届かない。
振り返らないように、ドアノブに手をかける。
開けた瞬間、冷たい廊下の空気が全身を包んだ。
視線を戻すと――そこには、ただ静かに眠るハレがいた。
最後に一度だけ、その姿を目に焼き付け、ドアノブに手をかける。
ほんの一瞬だけ、動けなかった。
振り返れば、終わる。
戻れば、壊れる。
だから――
俺は音を立てずに部屋を出た。
玄関を開ければ、カイとリオがリビングで待っていた。
「頼む」
俺は一言だけ伝えて、エレベーターに乗り込んだ。
扉が閉まる瞬間、
視界から、灯りが消えた。
足取りに、迷いは一つもなかった。
だが胸の奥では、何かが静かに、確実に燃えていた。
――二度と、あの笑顔を曇らせないために。
***
翌朝。
「……おーい!ハレ、起きろー!!」
俺は、リオと寝室のドアをノックした。
返事はない。
もう一度、少し強めに叩く。
「……ハレー!! 朝メシ冷めるぞ!!」
ドアがゆっくり開き、寝ぼけ眼のハレが顔を出した。
髪は乱れ、パーカーのフードを半分かぶっている。
「……カイ、おはよ。ねぇ、レイは?」
ひゅっと、息が詰まる。
その一瞬の沈黙に、背後のリオが気づいた。
リオが前に出て、笑顔を作る。
「んー……先に任務行ったんじゃないかな。帰ってきたら会えるよ」
「そっか……」
ハレはほっとしたように微笑んだ。
「じゃあ、帰ってきたら一緒にごはん食べよっと」
その無邪気な笑顔に、俺は視線を逸らした。
「……そう、だな」
部屋を出ると、無言で廊下を歩いた。
角を曲がった瞬間、拳が壁を叩く。
低い音がフロアに響いた。
リオは目を閉じ、短く息を吐いた。
「……気分悪いね」
「……ああ」
俺は拳を壁に押し付けたまま――
動けなかった。




