紫月花の非情――50
朝の空気は、やけに軽かった。
歩道には、散り始めた桜の花びらが、まだら模様を作っている。
踏みしめるたびに、かすかな音がした。
隣を歩くハレの足取りも、いつもより少し弾んでいた。
「ねぇレイ!見てっ!!」
ハレはしゃがみ込んで、手のひらにパンくずを乗せていた。
一羽、また一羽と、鳩が集まってくる。
「レイ見て!いっぱい来た!!」
振り返った笑顔が、やけに明るい。
「あまり近付くな、病気になるぞ」
「えー?大丈夫だよ。鳩は平和の鳥なんでしょー?」
そう言ってハレは鳩にパンを食べさせる。
だが、鳩は加減など知らず。
勢いよくハレの手をつつく。
「痛っ………」
「ほらみろ」
でもハレは辞めなかった。
野鳥に、手で餌を与える。
普通はあり得ない行為だ。
感染症のリスクもある。 接触は避けるべきだと、教えられてきた。
だが——
……逃げないんだな。
小さく呟いて、視線を逸らした。
「ちゃんと手を洗うんだぞ」
「うん。分かった!」
ハレは笑ったまま、頷いた。
***
鳩に餌をやって、公園を出た俺とハレは、街の中を歩いていた。
人通りは多い。
雑踏の音が、途切れることなく続いている。
店先には色とりどりの看板が並び、
甘い匂いが風に混ざって流れていた。
ハレは落ち着かない。
右を見て、左を見て、
気になった店の前で足を止める。
「ねぇレイ、あれ見て!」
視線の先には、色の強い看板が並んでいた。
ハレは一つの店に吸い込まれる。
落ち着いた店内、花の匂いが掠めてくる。
ハレは何か目的があるわけでもなく、ただ店内を眺めていた。
そんなハレを眺めながら店を見て回っていた時、
装飾品のコーナで、俺は足を止めた。
昨日、ハレに新しいネックレスを用意すると言ったことを思い出したからだ。
「ハレ、気に入るものはあるか?」
俺が問いかけると、ハレは目を輝かせる。
「え!? いいのっ!?」
「ああ」
そう答えれば、ハレは笑ってネックレスを選び始めた。
「どれにしようかな~」
笑いながら、嬉しそうに選んだり。
「ん〜、これがいいかな?」
口を尖らせ、真剣な表情で選んだり。
いくつも手にとっては、俺にこれ、似合う?と、聞いてくる。
ハレが気に入った物を全て買うこともできる。
だが――
こうして選んでいる姿を見ている方が、
よほど価値がある。
……幸福だと思った。
「やっぱり、これかなぁ?」
そう言って、ハレが手に取ったのは、
小さな星のモチーフがついた、シルバーのネックレスだった。
その星を見た瞬間――
——ド、ド……ソ。
ほんの一瞬。
それほど遠くない記憶が、脳裏に過った。
畳の敷き詰められた部屋。
狭い部屋に無理やり置かれた、アップライトのピアノ。
あの頃は、泣いてるハレをどう泣き止ませるかで必死だった。
「レイ?」
ハレが首を傾げながら、俺の顔を覗き込む。
「どうした?」
「これ、似合う?」
「似合ってる。これにするか?」
「うん!」
満面の笑みのハレ。
この顔を見るだけで、
生きていて良かったと、思える。
***
「チョコバナナクリームお願いします!!」
いつものクレープ屋でハレはクレープを頼んだ。
「レイは?シュガーバターでいい?」
「いや、俺はいい」
そう答えれば、ハレは少し残念そうに笑う。
……一緒に食べてやりたい気もあるが。
手には、ここに来る前に寄ったケーキ屋の箱。
中には、八つ。
とてもじゃないが、収まる量じゃない。
ハレはクレープを一口かじって、少しだけ目を細めた。
「……おいしいっ!」
そのまま、少し間を置いて。
「レイと一緒に食べたかったなぁー」
ぽつりと、零す。
——次の瞬間。
俺は、ハレの手元にあるクレープを掴んでいた。
「えっ?」
そのまま、躊躇なく一口かじる。
「……うん。悪くない」
ハレは一瞬固まって——
「え!?ちょっ……それ私の!!」
「問題ない」
「いやあるよ!?」
ハレは慌ててクレープを引き戻した。
「もー……」
口を尖らせながらも、小さく笑う。
「やっぱり、もう一口あげる!」
そう言ってハレはクレープを差し出してくる。
「十分だ。」
「いいのっ! ほら、レイ。あーん」
嬉しそうにクレープを差し出すハレ。
断ることなど、出来なかった。
「美味しぃ?」
「………甘い。」
そう呟いた瞬間。
ハレは満足げに、笑った。
***
帰り道は、やけに静かだった。
さっきまでの喧騒が嘘みたいに、
足音だけが、ゆっくりと続いていく。
隣では、ハレがクレープの話をしている。
「次はさー、いちごいっぱいのやつ食べたい!」
「ああ」
他愛のない会話。
それで十分だった。
――そのはずだった。
マンションの共同リビングに戻ると、
空気がいつもと違った。
ソファに座るカイとリオ。
二人とも、こちらを見たまま何も言わない。
「……どうした?」
先に口を開いたのは、俺だった。
カイは、頭を掻いてため息を吐く。
視線は、ハレから逸らされたままだった。
口を開いたのはリオだった。
「今日の幹部会議で、ハレの検査の件が話に出た」
「そうか」
ハレが検査を受けないと言った日から、こうなることは予想していた。
寧ろ、動きが遅いと思う程。
「私も、レイもちゃんと見てるとは言ったけど、ほぼ納得してない。あんたの事が怖くて言えないって感じ、気を付けたほうがいいよ」
リオは言葉を選んでいる。
つまり、ハレの検査を強行しようとしている奴が居る。
「問題無い」
それだけ言って、会話を切る。
こんな場など、いくつも乗り越えてきている。




