紫月花の非情――42
翌朝。
目を開いた瞬間、時計を確認した。
表示されている時刻は、7時02分。
……遅い。
いつもなら、もう少し早く目が覚めている。
昨夜、四時過ぎまで起きていたからだろう。
そう理解しようとして、すぐに気づく。
眠りが、浅かったわけじゃない。
むしろ、深すぎた。
隣を見ると、ベッドの端でハレがまだ眠っていた。
規則正しい寝息。
肩まで掛けられた布団を、無意識に握っている。
——起こしたくない。
そう思うのは、自然だった。
昨夜、話をした。
選ぶこと。
守ること。
それらを、言葉にしてしまった夜だった。
もう少し、眠らせてやりたい。
何も知らない朝のままで、いさせたい。
……だが。
今日は、検査の日だ。
俺は小さく息を吐き、手櫛でハレの髪を梳かす。
ベッドの沈み込む感触に、ハレのまぶたがわずかに揺れる。
「……ハレ」
静かに呼ぶ。
「……ん……?」
まだ眠そうな声。
目は半分も開いていない。
「おはよう」
「……おはよ……」
ゆっくりと目を開けたハレが、俺を見る。
昨夜と同じ。
何も変わっていない距離。
「……今日は」
言いかけて言葉を切った。
その続きを、飲み込む。
代わりに、問いかけた。
「検査、行くか?」
一瞬の沈黙。
ハレは、少しだけ考えるように視線を落とし、
それから、顔を上げた。
「……レイは?」
首を傾げて、問い返す。
「行ったほうが、いいと思う?」
その言葉に、間が空く。
正直に言えば、行かせたくない。
行けば、何をされるか分からない。
検査の名をした“計測”が待ってる。
壊れる前提で、どこまで耐えるかを測られる。
でも——
それを理由に、俺がまた全部決めてしまったら。
俺は、昨夜の自分に戻る。
「……」
喉の奥が、少しだけ痛んだ。
「俺は……」
言葉を選ぶ。
「俺は、行かない方が………いや、行かせたくないと思ってる」
はっきり言う。
でも、そこで終わらせない。
「でも、それを理由に、ハレを置いていく気も、選択を押しつける気もない」
ハレを見る。
「今日は検査の日だ。でも——
絶対に行かなきゃいけない日じゃない」
一拍。
「……今日は、俺と一緒に考えよう」
逃げでも、拒否でもない。
「行くなら、理由を決める。行かないなら、代わりを用意する。
どっちにしても、俺が居る」
そう言ってから、最後に付け足す。
「一人で選ばせない。それだけは、約束する」
ハレは、しばらく黙っていた。
布団の端を、固く握って考えてる。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「……今日は」
一拍。
「今日は、行かない」
その言葉が落ちた瞬間、
胸の奥で、何かが静かにほどけた。
「レイが一緒に居てくれるなら……今日は、ここにいたい」
俺は、一瞬、言葉を失ってから——
「……分かった」
そう答えた。
深く、息を吐く。
世界は、まだ何も変わっていない。
検査も、霊対庁も、何一つ消えてはいない。
それでも。
今日は、行かない。
それを選んだのは——
俺じゃない。
ハレだ。
***
「じゃぁ、もう少し寝るか」
その言葉が、やけに静かに落ちた。
一瞬、空気が止まった気がした。 ハレが目を見開く。
「えっ!?」
予想通りの反応。
普段の俺なら、二度寝なんて許さない。 ハレも、それを分かっている。
だからだろう。 ハレは俺の額にそっと手を当てて、
少し不安そうに覗き込んできた。
「もしかして、レイ、具合悪い?」
その指先が、ひどくあたたかい。
「………」
「大丈夫っ!? 熱は無さそうだけど………私っ!薬探してくるっ!!」
慌ててベッドから抜け出そうとするハレを、
反射的に、俺はその手首を掴んで引き寄せた。
柔らかい体温が、すぐ隣に戻ってくる。
「ははっ、」
思わず、声が漏れた。
「レイ?」
「大丈夫だ。具合が悪いわけじゃない」
「そう、なの?」
不安が完全に消えないまま、ハレは俺を見上げる。
「ただ、ハレと一緒に居たいだけだよ」
それは理由でも、言い訳でもなかった。
今の俺が、選んだ答えだった。
「ほんと? 無理してない?」
「してない」
即答する。
「なら、良いけど………お仕事は? 会議、行かないの?」
いつもなら、ここで話は終わる。 仕事が優先で、ハレは待つ側だった。
「今日はカイに任せる」
一拍。
「ずっと、ハレと一緒に居る」
その言葉に、ハレが瞬きをする。
「………なんか、いつものレイじゃないみたい」
自分でも、そう思う。
でも、不思議と違和感はなかった。
「こんな俺は、嫌か?」
少しだけ、怖かった。 答えを待つ時間が。
「嫌じゃない」
ハレは、すぐに笑った。
「大好きだよ!」
迷いのない声。 疑いのない目。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
——ああ。 俺は今、選ばれている。
***
「レイ、レイっ……起きて」
遠くから、声がした。
意識の底に沈んでいたはずなのに、その声だけは不思議とすぐに届く。 名前を呼ばれる感覚が、夢と現実の境目を引き上げてくる。
「レイ」
もう一度。
目を開けると、視界いっぱいに光があった。
逆光で輪郭が滲んで、それでも分かる。
ハレだ。
ベッドの脇に腰を下ろして、少し前屈みになって俺を覗き込んでいる。 窓から入る昼前の光が、髪の縁を淡く照らしていた。
「……おはよう」
喉がまだ眠っている声でそう言うと、 ハレはぱっと表情を明るくして笑った。
「おはよ、レイ!」
その声が、やけに元気だ。
「……今、何時だ」
半分目を閉じたまま聞くと、ハレは胸を張るみたいに言った。
「11時!」
「……そうか」
遅い。 明らかに、いつもより。
けれど、頭は不思議なほど静かだった。 焦りも、警戒も、鳴らない。
「ねぇ、レイ」
ハレが、少し身を乗り出す。
「私、ご飯作ったの!」
「……は?」
一瞬で眠気が引いた。
慌てて上体を起こすと、ハレはもうベッドから離れていて、
少し離れたところで、くるっと一回転するみたいに立っていた。
「じゃーん」
エプロン姿。 サイズの合っていないそれを、無理やり結んだ跡。
髪も、不器用にまとめられていて、毛先があちこち跳ねている。
「ちょっと失敗したけど……味は、たぶん大丈夫!」
そう言って、少しだけ不安そうに笑う。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「……怪我は」
「してない!」
即答だった。
「ちゃんと気をつけたよ。レイがいつも言うから」
そう言われて、何も返せなくなる。
「……分かった」
ベッドを降りながら言うと、ハレはほっとしたように息を吐いた。
「一緒に、来て」
手を引かれるまま、キッチンへ向かう。
テーブルの上には、明らかに手探りで作られた朝食——いや、昼食。
少し焦げたトーストに、形の崩れた目玉焼き。
ミニトマトが丸ごと入ってる、コンソメのスープ。
完璧とは程遠い。
でも――
「……上出来だ」
そう言うと、ハレは目を丸くした。
「ほんと!?」
「ああ」
椅子に座ると、ハレも向かいに腰を下ろし、
一緒に手を合わせる。
「いただきます」
噛むたびに、少しだけ塩が強い。 でも、不思議と、嫌じゃない。
ハレは、俺の顔色を伺うみたいにじっと見ている。
「……どう?」
「美味い」
即答すると、今度は本当に嬉しそうに笑った。
「よかったぁ……」
食事を終えて、しばらく沈黙が落ちる。
気まずさじゃない。 ただ、穏やかな間。
「なぁ、ハレ」
そう呼ぶと、ハレは顔を上げた。
「今日は、何したい?」
一瞬、きょとんとする。 それから——
「えっ」
少しだけ間を置いて、ハレの表情がゆっくり変わる。
「……いいの?」
「ああ」
「……じゃあ」
ハレは、指を折りながら言った。
「レイとお出かけしたい」
一つ。
「お散歩して」
二つ。
「カフェ行って」
三つ。
「お買い物して」
四つ。
少しだけ、照れたように笑って。
「それで……レイのピアノ、聞きたい」
胸の奥が、静かに締め付けられる。
どれも、危険じゃない。
どれも、逃げでもない。
ただ——一緒にいる時間。
「……全部、しよう」
そう言うと、ハレは一瞬固まってから、声を上げる。
「ほんと!?」
「ああ。今日は、そういう日だ」
ハレは、椅子から立ち上がって、俺の腕にぎゅっとしがみつく。
「やった……!」
その重さが、確かで。 温度が、ちゃんとある。
——ああ。
俺は、選ばれてる。
そう、静かに思った。
世界はまだ、何も変わっていない。 それでも。
今日は、ハレが選んだ一日だ。




