紫月花の非情――41
寝室の前で、私は一度だけ足を止めた。
時計を見るまでもない。体感で分かる。
——まだ、三時前後。
普通なら、起こさない時間。
明日がある人間なら、絶対に。
ドアの向こうからは、静かな寝息。
規則正しくて、深い。
ちゃんと眠れてる証拠。
ただ……可哀想だな、って思った。
何も知らないまま、ただ守られてる。
疑うこともせず、安心して眠ってる。
それを壊すのは、残酷だ。
でも。
このまま眠らせておいたら、
きっと、もっと酷い形で起こされる。
私は、ドアノブに手を掛けた。
「ごめんね」
小さく、誰にも聞こえない声で言ってから、静かにドアを開ける。
室内は薄暗くて、カーテンの隙間から、街の灯りが僅かに滲んでいる。
ベッドの上で、ハレは丸くなっていた。
無意識に、何かを抱きしめるみたいな姿勢。
——レイに、守られてきた子。
私はベッドの脇に腰を下ろす。
マットレスが、わずかに沈む。
起こし方は、決めてた。
急がせない。
脅かさない。
嘘をつかない。
「……ハレ」
小さく、名前を呼ぶ。
一度じゃ起きない。
それも、分かってた。
「ハレ。私だよ」
少しだけ、声を近づける。
まぶたが、ぴくっと動いた。
「……ん……?」
寝ぼけた声。
まだ、世界が現実に戻ってきてない。
「リオ……?」
「そう。リオ」
私は、笑わなかった。
ここで笑ったら、逃げ道を作る。
「ごめんね、こんな時間に」
ハレはゆっくりと目を開ける。
焦点が合うまで、数秒。
「レイは?……なにか、あった?」
その一言で、胸がきゅっとなる。
自分のことより、
レイのことを先に聞く癖。
「あったよ」
私は、正直に答えた。
「ハレにも関係する、大事な話」
一瞬、眠気が引いたのが分かった。
「……私にも?」
もう全部が不安そうな顔。
私は、否定もしないし、肯定もしない。
「ね」
ハレの視線を、ちゃんと受け止めて言う。
「起こすの、すごく迷った」
ハレは、黙って聞いてる。
「でも、今起きて聞いてほしい」
一拍。
「守られる話じゃなくて、選ぶ話だから」
部屋が、静まり返る。
ハレは布団を握ったまま、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく頷く。
「……わかった」
声は、まだ少し震えてる。
でも、逃げてない。
「着替える?」
「ううん、このままでいいよ」
ハレは布団を抜けて、立ち上がった。
「リオ」
振り返って、言う。
「ありがとう。起こしてくれて」
——ああ、やっぱり
この子はもう、守られるだけを望んでない。
私はドアを開けながら、心の中で呟いた。
ごめんね。
でも——
これが、あんたを鍵じゃなく
人間として扱う、最初の一歩だからさ。
***
ドアの向こうで、足音が止まった。
ほんの数秒。
それだけで、心臓の位置が分からなくなる。
俺は、ソファから立ち上がれずにいた。
立つ理由はある。
迎えに行く理由もある。
声を掛ける理由だって、山ほどある。
でも——
どれも、出来なかった。
——離れるはずがない。
分かってる。
ハレがそんな選択をするはずがない。
それでも。
もし、ここで自分から近づいて。
もし、ここで手を伸ばして。
もし、ここで「大丈夫だ」なんて言って。
その瞬間に、ハレが一歩、距離を取ったら――
その可能性だけが、頭から離れなかった。
あり得ない。
そんなこと、分かってる。
今までずっと、隣に居た。
何度だって、戻ってきた。
俺の名前を呼んで、笑って――
それでも、
選ばせるということが、
ここまで重いものだとは、思ってなかった。
――怖い。
自覚した瞬間、喉の奥がひりつく。
そんな俺を、 カイは完全に呆れた目で見ていた。
「……お前さ」
小さく、ため息。
「今まで何見てきたんだよ」
リオは腕を組んだまま、 何も言わない。
ただ、静かに俺を見てる。
ああ、そうだよねってどこか達観してる顔。
——次の瞬間。
廊下の足音。
一歩。 また一歩。
自分の背中が、びくりと強張る。
そして扉が開いた。
「……あ」
小さな声。
ハレだった。
寝間着のまま。 髪もそのまま。
少し眠そうで、でもちゃんと起きている顔。
ハレは部屋を一度見渡して、 それから——
迷いもなく、俺を見つけた。
そして、とことこと歩いてきて。
ソファの横に立ち、 何の躊躇もなく。
俺の隣に座った。
距離は無い。
肩が触れるほど近く。
いつもと同じ。 何一つ、変わらない位置。
ハレは首を傾げて、 いつもの調子で言う。
「レイ? 起きてたの?」
責めるでもなく、 探るでもなく。
ただの疑問。
「リオがお話あるって言ってたから来たよ?」
それだけ。袖を、指先で軽く摘まれる。
「どうしたの?何かあった?」
「いや………」
「………何があっても、私はレイの隣に居るからね?」
その一言で、恐怖が落ち着いていく。
ああ、俺は――
選ばれても良い人間なのか。
カイが、呟いた。
「ほらな」
リオは、少しだけ笑った。
「だから言ったでしょ」
俺は、ようやく息を吐いた。
長く。 深く。
「……起こして悪かった」
そう言うと、 ハレは首を振る。
「大丈夫」
当たり前みたいに。
「レイの話だもん」
その言葉で、 胸の奥に溜まっていたものが、 静かに崩れた。
怖がってたのは、俺だけだった。
ハレは――
ずっと一緒に居てくれる。
隣に座る温もりを、 今度は、ちゃんと受け取った。
***
リオは、ハレが座ったのを確認してから、わざと一拍置いた。
急がせない。逃がさない。
その間が、妙に長く感じる。
「……ねぇ、ハレ」
名前を呼ぶ声は、さっきより少しだけ柔らかい。
「難しい話はしないよ。でも真面目な話だから、ちゃんと聞いてね?」
ハレは理解してないような顔で、でもしっかりと聞く姿勢をとった。
「うん」
その返事に、胸の奥がきしんだ。
リオは、俺を見ない。
ハレだけを見ている。
「ハレの力ね。すごく特別で、すごく危ない」
ハレの指先が、服の裾を掴む。
「危ない……の?」
「うん。誰かを守るために使えるし、誰かに使われることもある」
俺の喉が、ひくりと鳴った。
リオは続ける。
「今までね、ハレはずっと守られてきたの」
責める口調じゃない。
事実を並べてるだけ。
「守られて、囲われて――
何も知らなくていい場所に置かれてたんだ」
——やめろ。
言葉に出せない声が、胸の中で暴れる。
「それを選んだのは」
「………私?」
「違う。レイが、そうした」
リオは、はっきり言った。
ハレの視線が、ゆっくり俺に向く。
「ハレに選ばせないことで、レイはハレを守ろうとした」
空気が、ぴんと張る。
ハレはすぐに否定しない。
ただ、首を傾げた。
「……それって、悪いことなの?」
その一言で、分かる。
ハレは、俺を責めるつもりなんてない。
俺が正しい、そうやって教えてきたから。
リオは、小さく息を吐いた。
「悪いかどうかは、問題じゃないよ」
一歩、踏み込む。
「でもね。それで苦しくなってる人が、ここにいる」
一瞬だけ、リオの視線が俺に刺さる。
「だけど、今は違うんだ」
リオは、ハレに向き直る。
「ハレには、選べる場所に来てもらった」
「選ぶ……?」
「うん」
リオは、膝に手を置いて、目線を合わせた。
「ずっとこのままでいたいか。それとも、別の道を選ぶか」
——来るな。
——その選択肢を、口にするな。
心臓が、うるさく鳴る。
「別の道って?」
「今、ハレを守ろうとしてるレイがちょっと暴走してる。
ハレが決めなきゃいけないことも、全部レイが決めて動いてて、
ちょっと無理しすぎて、疲れてる」
「私の、せい、で?」
「違うよ。ハレのせいじゃない」
リオは、すぐにそう付け足した。
「ただ、ハレの気持ちが知りたい。レイに任せてばっかりでいいのか、
ハレ自身は、この先どういう風に生きていきたいのか………本当の気持ちを言って欲しいの」
ハレは、少し考えてから、ぽつりと言った。
「……レイは?」
喉が詰まる。
「レイは、ハレに居てほしいと思ってる」
リオは、嘘をつかない。
「でも、ちょっと正しい判断が出来なくなってた」
ハレは、ゆっくり俺を見た。
困ったみたいに、でも優しく。
「……そっか」
それだけ。
それだけなのに。
「……レイ」
名前を呼ばれて、逃げ場がなくなる。
「私、まだよく分かんないけど………」
一拍。
「レイと一緒に、居たいよ?………でも」
ちょこんと、距離を詰められる。
肩が触れる。
「守ってくれるのは嬉しいけど………
レイが困ってたら、私は助けたい。
私は、レイが好きだから――レイと一緒に生きたい。」
——ああ。
怖がってたのは、俺だけだ。
リオが、少しだけ笑う。
カイが、呆れたように言う。
「ほんと、お前等重いわ」
俺は、ようやく息を吐いた。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
ハレは首を傾げて笑う。
「……… どういたしまして、なの?」
世界は、まだ何も変わってない。
でも――
ハレは俺の隣のまま。




