紫月花の非情――35
その日、私は自分でも引くくらい口が開いていた。
理由は一つ。
ハレが、猫を拾ってきたから。
しかも――
めちゃくちゃデカい。
「ねぇ見てリオ〜!映画に出てくる猫みたい〜♪」
そう言ってハレは、白くて丸くて、
どう見ても普通じゃないサイズの猫を撫でている。
……いや、待って?
これほんとに猫?
大型犬じゃなくて?
いやクマ……。
私が言葉を失っている横で、カイは腹を抱えて笑っていた。
「ちょ、やばっ……! なにこれ、色々ヤバすぎでしょ!」
そう、変なのは猫だけじゃない。
リビングの奥に立つレイが、めちゃくちゃ不機嫌だった。
声は低いし、動きも静か。
でも、空気が――冷たい。
「……ハレ」
名前を呼ぶだけで、温度が下がる。
「捨ててこい」
一瞬、時間が止まった。
「えぇ〜!? だって可哀想だよ〜? 捨てられちゃったんだよ?」
そう言ってハレは、さらに猫を撫でた。
こんなにまるまる太った猫が捨て猫だとは考えられない。
――次の瞬間だった。
『にぁぁぁん……。』
猫がゴロンとひっくり返る。
腹を見せて、喉を鳴らして、完全にご機嫌モード。
そして――レイが、固まった。
一歩も動かないし、瞬きもしない。
数秒後、低い声が落ちた。
「オス猫………」
リビングの空気が、完全に凍った。
「ハ、ハレ!!」
私とカイは同時に動いた。
「なにー?カイとリオも捨てろって言うの?」
「ちがっ、違うからっ!多分この子、飼い主いるよ!?」
「そうそう!毛並みもいいし、餌に困ってる感じしないし!」
「ね? 返してあげよう? ね!?」
ハレは不満そうに猫を見て、
それから私たちを見た。
「……ほんとに? 飼い主、いるの?」
「ほんとほんと!!多分散歩してたんだよ!」
カイが全力で頷く。
レイは何も言わない。
ただ、視線が猫から一切外れない。
しばらくして、ハレは小さくため息をついた。
「……分かった。じゃあ、おうち探してあげよう」
その瞬間、レイの肩の力がほんの少しだけ抜けた。
……ほんの、少しだけ。
でも、それからのレイは早かった。
飼い主を特定して、何も言わずに猫を抱き上げて――
慌てて追いかけ、レイの乗った車に乗り込む私達。
車が発進し飼い主の元へ向かうのかと思いきや、
レイはコンビニに入って行った。
暫くして戻ってきたレイの手には猫の大好きなステック状のおやつ。
「家に着くまでだからな」とハレにおやつを手渡し、
ハレは喜んで猫におやつをあげた。
数十分経って到着し、家の前にそっと猫を下ろしたら、
猫は何事もなかったみたいに、勝手に家の中へ入っていった。
ハレはちょっと寂しそうで、レイはどこか安心したみたいだった。
……なんなんだろう、この一件。
私は思った。
ハレは優しすぎて、レイは重すぎて、カイは面白がってて。
……でも多分。
あの猫、ただの猫じゃない。
それよりもっと確かなことが一つある。
——レイは
ハレが自分以外に触れるのが、本気で嫌なんだと。
それを、私は今日、はっきりと理解した。
***
夜。
ハレが完全に眠ったのを確認してから、俺は静かにベッドを抜けた。
寝息は規則正しい。夢は、見ていないらしい。
リビングの灯りは点けなかった。
ただ、PCの電源だけを入れる。
カイから受け取ったデータ。
盗聴、位置情報、行動ログ。
すべてが淡々と、事実だけを並べていた。
再生。
雑音混じりの音声。
若い声が、複数。
再生された音声は、雑音混じりだった。
『……花、どこに居るんだろ』
『早く見つけないとな。』
『そうだな』
軽い。
警戒も、焦りもない。
まだ、何も知らないような声だった。
俺は音声を止め、次のファイルを開いた。
個人データ。
武道祭。
竹中集。
桃咲円。
年齢は俺達と同い年。経歴中学以来無し、所属履歴無し。
そして――出身地。
【東北地方 ◯◯県 ◯◯郡 常祈戸村】
指が止まった。
視界に入った文字列を、
読み取ろうとする前に、理解していた。
紫月花。その名前が、なぜ完全に秘匿されているのか。
なぜ、庁のデータベースに触れられないのか。
理由は一つ、ハレだからだ。
研究所を出た時、ハレの情報は一通り頭に入れてある。
ハレの本当の名前、生まれた家系のこと、
その村の生活がハレの家系の力に依存しきっていることも。
俺は椅子にもたれ、目を閉じる。
「潰すか」
ハレを“花”と呼ぶ人間がいる。
それだけで、もう十分だった。
話し合う理由も、警告する価値もない。
ハレに触れようとした。
それだけで、終わりだ。
視線を寝室の方へ向ける。
扉の向こうで、ハレは眠っている。
何も知らず、何も疑わず、俺のそばで。
「……大丈夫だ」
誰に向けた言葉かは、分からない。
俺は静かに立ち上がり、PCの電源を落とした。
――潰す。
それだけを決めて、俺はハレの隣に戻った。
***
それは、前触れもなく、レイに言われたことだった。
「今日、ハレを外に出すな、ここで待たせてくれ」
淡々とした声。
感情の起伏はない。
でも――嫌な予感しかしない。
「……は?」
思わず聞き返すと、レイは襟を整えながら一度だけ振り返った。
「俺が戻るまで。絶対マンションから出すな」
「いや無理だろ!?」
「夕方まで、リオと現場に行ってる。その後少しだけで良い」
「いやいやいやいや、ハレだぞっ!? 酸素よりお前が良いって……」
レイは答えなかった。
そのままエレベーターの扉が閉まる。
俺はその場で崩れた。
「――終わった」
俺、完全に絶対に終わった。
***
夕方。
リオとハレが現場から帰ってきた。
俺はとりあえず何も無かったかのように夕飯の支度を始めた。
「ねぇカイ〜!!」
背後から聞こえる、やたら機嫌のいい声。
振り返ると、ハレがソファに座って、にこにこしながら俺を見ていた。
「今日の夜ごはんなに?」
その時点で察した。
レイ不足だ。完全に。
「えーっとな……今日は、その……カレーでも………」
「ねぇ、レイは? 映画見る約束してたんだけど」
即死級の質問。
「……仕事」
一拍。
「ふーん、じゃあ迎えに行ってくる!」
既にご機嫌斜めモードのハレ。
俺は手を止め、ハレの前に立ちはだかる。
「いやいや、もうすぐ帰ってくるから待ってようぜ?な?」
「ほんと?」
「ほんとほんと!後ちょっとだから。な?
映画でも観るか?ほら、ハレの好きなやつ!」
「レイと見たい」
「それは………無理かなぁ?」
「じゃあ、迎えに行ってくる」
秒で詰んだ。
「だから、すぐ来るって。トランプしようぜ?」
「レイとやりたい!」
「ゲームは? 対戦しようぜ? 俺と……」
「レイ………」
「お菓子食べる? ケーキとか、な?」
「………」
……あ、これ詰みゲーだ。
「……ハレ?」
「なに?」
「今日はさ、大人しく――」
その瞬間。
「――レイが良いのっ!!!! 」
床を踏み鳴らし、ハレが立ち上がった。
「レイのところ行くのっ!今すぐ!!」
「待って待って待って!! レイがダメって――」
「カイはレイじゃない!!レイに聞くっ!!」
正論パンチやめて。
次の瞬間、ハレはエレベーターへダッシュ。
慌てて一緒に乗り込み、ハレの肩を掴む。
「ちょっ、待って! な?レイ呼ぶからっ!!」
「嫌っ!!行くっ!!」
「頼むッ!!頼むからッ――」
エレベーターのドアが開く。
風。
足音。
そして、手が振り払われる。
――あっ。
「ハレ!!待てって!!」
全力で追いかける。
廊下、階段、外。
マンションを飛び出して、夜の街へ。
「ハレ!!お願いだから止まって!!」
振り返らないし、迷わない。
ただ一直線に、
――レイのところへ。
「……終わった」
本気で思った。
追いつける訳がない。
止められる訳がない。
レイにバレたら――
俺、確実に殺される。
その先で、ハレが“誰か”と出会うなんて――
この時の俺は、まだ知らず。
ただ、走るしか無かった。




