紫月花の非情――31
深夜二時。
寝室は静かで、窓の外には遠くの街灯りだけが滲んでいた。
隣ではハレが小さく寝息を立てている。
俺のシャツを掴んだまま、安心しきった顔で眠っていた。
「……」
頬にかかった髪を指で払う。
その仕草ひとつで、無意識に眉間の緊張が解けていく。
——こんなにも、守りたいと思うものがある。
目を閉じれば眠れるはずだった。
だが、ただ隣に在るこの温もりを確かめていたくて、
瞼を閉じることを躊躇っていた。
その時だった――
ウウウウウウウウ……ッ!!
突如、庁内に鳴り響く緊急警報。
赤い非常灯が室内を断続的に染め上げた。
俺は瞬時にベッドから跳ね起きた。
隣で寝ぼけるハレを揺さぶる。
「ハレ、起きろ。出るぞ」
「……ん、レ、イ?」
眠たげに擦る目。
「ハレ、仕事だ」
だが俺の声の調子を聞いた瞬間、彼女の瞳に緊張の色が走った。
「仕事?」
「緊急事態だ」
——平穏は一瞬。
次の瞬間には、戦場に呼び戻される。
「ハレ、急げ」
俺はベッドから飛び降りると、ハレを起こしクローゼットを開ける。
制服を手早く渡し、自分も着替える。
「これ、ボタン……」
小さな指が慌てて震えているのを見て、俺はその手を取った。
一つずつ確かめるようにボタンを留めてやる。
「……ハレなら大丈夫だ。落ち着け」
「……うん」
頷いたハレの瞳に、眠気はもうない。
いつもの無邪気さの奥に、覚悟の色が宿っていた。
靴を履かせ、髪を後ろでまとめる。
準備は数分とかからなかった。
ドアを開けると、ちょうど向かいの部屋からカイとリオも飛び出してきた。
カイはすでに肩を回して準備万端、
リオは髪をひとつに束ねながら冷静な顔。
「状況は?」
短く問いかける。
「まだ不明。これから確認する」
リオがモニターを指差す。
四人で駆け込んだリビングの中央。
壁一面のモニターがすでに起動し、東京都の地図が映し出されていた。
――赤。
地図上に表示された警告領域がじわじわと広がっていく。
「……嘘だろ」
カイが低く唸る。
区画単位の小さな赤点は瞬く間に面を取り込み、
第一、第二、第三と——
わずか数十秒で、ほぼ都内全域が赤に覆われていた。
「……霊災、同時多発……?」
リオの声がかすれる。
これはもう偶発的な発生じゃない。
意図的な——災厄の拡散だ。
「レイ」
俺を呼ぶ声に頷き返す。
「行くぞ」
俺たちは同時に立ち上がった。
椅子が軋む音よりも早く、足音がリビングを叩く。
俺が先頭に立ち、48階直通のエレベーターへ。
指紋と霊紋認証をかざすと、重厚な扉が静かに開いた。
システム音声が響き、四人が乗り込むと同時に扉が閉まり、重力が足元を引き下ろす感覚が走る。
エレベーターは真下へ、沈み込むように動き出した。
赤く点滅する地図の残像が頭に焼き付いて離れない。
——これは、過去最大の霊災だ。
「……絶対に終わらせる」
誰に言うでもなく、吐き捨てるように呟いた。
隣で、ハレが小さく頷いた気配があった。
***
48階——S級専用格納庫。
分厚い鋼鉄扉が開いた瞬間、冷たい空気と霊力の振動が肌を撫でた。
壁一面に並ぶ武器ラック、鎧のように配置された装備群。
奥には出撃用の輸送機が静かに待機している。
コツコツと複数の靴音が響く。
ここに立つたびに、戦場の匂いを思い出す。
「レイ……」
不安げに俺を見上げるハレ。
まだ制服の腰は空いている。
「来い」
短く呼び寄せ、装備台から黒漆の鞘を手に取る。
刃渡りは彼女の体格に合わせて造られた、ハレ専用の刀。
しゃがんで、ベルトに通してやる。
「しっかり握れ。命を守るのは、まずこれだ」
「……うん」
小さく返事をして、ハレは鞘に触れた。
その指の震えが、一瞬で覚悟に変わっていくのを見逃さない。
次は自分の武器台へ。
そこには数十本のナイフが規則正しく並んでいる。
俺は迷わず3本を抜き取り、ホルスターに差し込む。
「……たった3本で足りんの?」
後ろからカイの声。
「十分だ」
刃は選んだ瞬間に意味を持つ。
それ以上は不要。
横を見ると、リオはすでに準備を終えていた。
腰にベルト、両腕にブレスレット、指にリング。
一つひとつが霊力で変形し、武器へと姿を変える。
「ふふ、今日はどれを使おうかな」
楽しそうに笑うその姿に、緊張感すら揺らぐ。
そしてカイ。
——他の誰とも違う。
彼のラックには武器は一つもない。
並んでいるのは、
透明ケースに収められた数十個のルービックキューブだけ。
様々な素材で出来たキューブに数式や星座、回路模様……等が一つひとつが精巧に刻まれ、美術品の展示棚のように光を反射している。
「……またそれか」
思わず低く呟いた。
リオが肩を揺らして笑う。
「芸術品コーナーだね」
だがカイは真剣な顔で、ケースに並ぶキューブを吟味していた。
「違ぇって。俺にはこれが一番しっくり来るんだよ」
そう言って手を伸ばし、クリスタル製のキューブを取る。
「……よし、今日の相棒はお前。準備オッケー!」
ハレは笑いながらカイに問いかけた。
「カイ、また現場でカチャカチャするの?」
「当たり前だろ?」
「おもちゃなのに?」
俺は眉をひそめながらも、その言葉を否定しなかった。
——遊びじゃないことを、俺たちは知っている。
カイはにやりと笑い、キューブをポケットに収める。
「おもちゃじゃねぇよ。これが俺の武器だ」
輸送機のエンジンが唸りを上げ、格納庫全体が震えた。
緊張の空気が一気に戻ってくる。
——準備は整った。
「ハレはリオと行け」
「う、うんっ…………」
いつもなら俺と一緒が良いとゴネるハレも事態が事態なだけに、
今日ばかりはゴネなかった。
「第一から第四エリアを俺とカイ、第五、第六をハレとリオで行く」
「オッケー」
「了解!」
「分かった」
手短に伝えるとそれぞれが格納庫から出てエレベーターに乗り込むと、
ハレが俺の袖を掴んだ。
「レイ…………」
その表情には不安が滲んでいた。
エレベーターが15階で止まると、俺はハレの背中をそっと押した。
「大丈夫だ。無線を繋ぎ忘れるな」
「うん」
ハレとリオがエレベーターを降りて扉がしまる。
俺は一つ息を吐いて意識を集中させた。
霊対庁のエリアマップにより、都内は6つのエリアに分けられている。
優先順位は数が若いほど優先される。
そして庁が並ぶここ、官庁街は第一エリアに当たる。
つまり最優先に守らなければ行けない場所だ。
***
庁の外は殺伐としていた。
次々と出ていく出動車。
「A級三班、第三区画B到着――」
「C級二班、核エネルギー確認!直ちに包囲するッ――」
「避難所全域開設完了――直ちに避難誘導開始する」
「開発部門より、物資配置開始――」
次々と飛び交う無線。
だが、すぐに無線が一斉に被り始める。
悲鳴と報告の区別がつかなくなっていく。
「第三エリア、避難誘導中に霊核反応――」
「C級二班、応答しろ!……くそ、返事がない!」
「子供がまだ――!」
ノイズに言葉が飲まれ、通信は途中で断ち切られる。
完璧な指示系統は、保てていない。
人手が、判断が、圧倒的に足りない。
一つの判断ミスが国の致命傷になりかねない。
「カイ、どっちがいい」
「んー、じゃあ、第二で」
俺の問いにカイはニヤリと笑って答えた。
本当にこいつは、良く分かってる。
俺は全隊員に無線を飛ばす。
「全隊員に告ぐ、第一は俺、第二はカイ。AC偶数班は第三第四へ、その他は第五第六に回れ」
「――了解!」
「了解しましたッ!」
「ハレとリオは値が高いのだけ狙え」
一瞬、間を置いて続ける。
「赤以下は切り捨てろ。今は、守れない場所を選ぶ時間だ」
「オッケー!」
「わかった!」
「――以上だ!」
出動車の赤色灯が、夜明け前の街を切り裂いていく
誰も声を上げない。
誰も冗談を言わない。
ここから先は、生きて戻れるかどうかを考える時間じゃない。
ただ、止める。
――それだけだ。




