紫月花の非情――26
朝の光が共同リビングに差し込み、
カウンターキッチンの上でマグカップから湯気が立ちのぼる。
俺はコーヒーをひと口啜り、
ソファに腰掛けて待っているハレへ視線を送る。
「……本当に、今日は一緒じゃないの?」
ハレは背凭れに頬をつけ、半分以上ふくれた声で言う。
「危険度は高いが、根源は雑多だ。ハレを連れて行く理由はない」
淡々とした口調に、ハレはさらに頬をふくらませる。
「置いていくなんて、ひどいよー。私が頑張るからぁ」
「すぐ戻る」
短い言葉とともに、俺はカップを置き立ち上がる。
その動きに合わせて、リオがスッとハレに近づいた。
「じゃあ今日は私がハレを連れ出してあげる。街まで出て、甘いものでも食べよっか」
軽い声に、ハレは一瞬で表情を明るくする。
「……ほんと?」
「ほんとほんと。レイには内緒で可愛い服も見よ?」
二人を交互に見やり、わずかに眉が上がる。
リオの声は軽いが、その裏で何かを企んでいるときの癖を俺は知っている。
油断すれば、本当に俺の知らない服を着せられるだろう。
「……ハレを迷子にするなよ、あと変なものを着せるな」
「しないってば!」
リオは笑いながら、ハレの肩に手を置く。
その背後で、カイがいつもの軽い調子で声をかけた。
「レイ、さっさと終わらせようぜー」
俺はうなずき、ハレの髪を軽く撫でる。
「留守番、頼んだぞ」
「うん、でも早く帰ってきてね?」
「分かってる」
***
ゲートを抜けると、湿った夏の空気が頬を撫でた。
隣のハレが小さく瞬きをして、陽光に目を細める。
こうして外に連れ出すだけでも、レイは渋い顔をするものだから、
今日の許可はほぼ奇跡みたいなもんだ。
ま、本人は「甘いものでも」なんて言ってたけど。
本当の狙いは、かわいい服を一着でも着せること。
どうせあの男は、黒か白のシンプル且つ、
肌の露出が少ない物しか認めないから。
ゲートの警備員が「いってらっしゃいませ」と言いながら、
視線をハレにだけ釘付けにしているのが、少し可笑しい。
あの子は人の注目を集めるのが当たり前みたいな顔をしている。
それが無自覚だから、余計に危なっかしい。
「やっぱハレ、目立つなぁ」
「そうかなぁ……」
きょとんとした声。
この子は自分がどれだけ無防備か、本当にわかってない。
街の喧噪が耳に飛び込んでくる。
クラクション、店先の呼び込み、カフェから漂う甘い香り。
ハレは子犬みたいにそちらへ首を伸ばす。
「……あっち、なんか甘い匂いする!」
「あぁ、あそこか、行く?」
「うんっ!」
指差した先には、ガラス越しにカラフルなマカロンタワー。
まるでおとぎ話の菓子城だ。
「じゃあ、まずはおやつだね。今日はレイに邪魔されないから、思いっきり楽しもう」
「えへへ……やったぁ!!」
ハレは本当に楽しそうに笑う。
やっぱり、こういう顔は見せてやらなきゃ損だよね?
ショーケースの中は、宝石みたいな菓子でぎっしりだった。
苺が艶やかに光るタルト、淡い緑のピスタチオムース、
ガラス細工みたいに繊細な飴細工まで並んでいる。
「わぁ……」
ハレは目を輝かせて、片手でガラスをそっと押さえる。
完全に子供の反応。
でもこの素直さが、見てるこっちまで楽しくさせる。
「好きなの選んでいいよ。今日は特別だから」
「え、ほんとに?二つでも?」
「……何個でもいいよ」
からかうつもりだったのに、ハレは本気で迷い始めた。
窓際の席にケーキを並べると、ハレは少し落ち着かない様子で周りを見回した。
外の光が差し込む大きな窓、ひそひそ声、視線。
ハレの肩がわずかに縮こまる。
「リオ……なんか、見られてる気がする」
「そりゃあ、可愛い子が山ほどケーキ並べてたら誰でも見るよ」
「そうかなぁ……?」
軽く笑って言いながら、私はさりげなく視線の主を見返す。
ふっと逸れる視線。やっぱりそうだ。
「大丈夫、ここに居る全員、ハレより弱いから」
「……えへへ」
少しだけ安心したように笑って、ハレはフォークを取った。
この笑顔を守るためなら、私もやるときはやるんだから。
ケーキを食べ終えると、ハレはカフェの外に貼られた広告を指差した。
そこには、淡いベージュのワンピースを着たモデルの写真。
「あれ、かわいい……」
来た来た来た。こういう瞬間を待ってた。
「じゃあ、見に行ってみよっか?」
「でも……レイ、怒らない?」
「怒る前に買っちゃえばいいの!」
ハレは少し困ったように笑って、それでも頷いた。
このあとどんな顔であの男が睨んでくるか、想像するだけで少し楽しい。
店の扉をくぐった瞬間、柔らかい香水の香りと軽快な音楽が耳に届く。
店内は春物の新作で溢れ、マネキンたちは花柄や淡い色のワンピースでお出迎えだ。
「わぁ……!」
ハレは完全に目を輝かせて、ディスプレイに駆け寄った。
その背中を見ながら、私は心の中でため息をつく。
あー……これ、レイに見せたら秒で顔が曇るやつだ。
「リオ!これ、着てみていい?」
「もちろん。サイズ見てくるから待ってて」
ハンガーを持ち上げ、タグを確認して試着室へ案内する。
カーテンを閉めると、中からは小さく弾んだ声が聞こえてきた。
「わ、すごい……かわいい……」
ハレが鏡の前でくるくる回ってるのが想像できる。
「見ていい?」
「だめー、まだ」
軽く笑ってその場で待つ。
やがてカーテンが開き、
そこには、ふわりとしたベージュのワンピースを着たハレ。
髪も柔らかく見えて、瞳まで明るく映える。
これは店員も客も間違いなく振り返るやつだ。
「似合う?」
「……似合いすぎて困る」
本音だ。だけど困るのは私じゃなくて、レイだろうな。
「買っちゃおうかな……」
「買っちゃえ。今日のことは内緒にしとくから」
ハレは照れたように笑った。
その瞬間、私の中でレイに絶対バレる未来が確定した。
タワーのエレベーターが静かに開く。
隣には両腕いっぱいに紙袋を抱えたハレ。
その数、ざっと十袋。
完全にバレるやつ………。
「だいぶ買ったね、今シーズンはもう買わなくていいんじゃない?」
「うんっ!リオが可愛いって言うから〜!」
顔を覗き込む笑顔が、まぶしいくらい全開だ。
「いや、可愛いのは事実だけど……レイにバレたら面倒じゃない?」
「大丈夫!帰ってくる前に片付ければ!!」
根拠のない自信をきらきら光らせながら、ハレはフロアを横切る。
さっきの心配はどこに行ったのか………。
フロアに到着するなり、自分の部屋に突撃するかと思っていたが、
なぜかそのまま共同リビングに買い物袋を全部ぶちまけたハレ。
「ここでファッションショーやるね!」
「え、ここで? ってかもう始まってる?」
次の瞬間には、ハレは一着目を抱えて部屋に消え、
三十秒も経たないうちにひらりと現れた。
ふわふわの薄いニットにリボン付きスカート。
くるりと一回転して、髪がふわっと舞う。
「どう?似合う?」
「……似合ってる。すごい可愛いし、ていうか着替え早すぎ」
「次いくよ!」
駆け込み、再び登場。今度は大きなフード付きワンピース。
袖をぶんぶん振って、ポケットに手を突っ込みながら笑う。
私はソファに腰を沈め、腕を組む。
完全にファッションショー観客ポジションだ。
どれも似合う。間違いなく。
でも、この勢いだと何着出てくるか
レイが戻ってくる前に終わるのかが、少し怖い。
「リオ!次はもっとすごいの!」
「はいはい……でもレイが帰る前に終わらせなよ?」
ハレはにやっと笑い、まるで間に合わせる気はないとでも言いたげに、次の服を抱えて部屋へと消えていった。
***
現場に着くと、俺とカイは淡々と区域を確認しながら歩き出した。
危険度は低い。
それでも、不測の事態に備えて目は常に動かす。
ふと、路地の掲示板に貼られた、一枚の紙が視界をかすめた。
「……何だ、これは」
近づくと、制服を着たハレが満面の笑みで敬礼している。
脇には太陽を模した庁のシンボル、そして大きな文字。
『あなたも街を守りませんか?』
胸の奥が冷える。
無防備すぎるその笑顔が、俺の知らない所で、
知らない誰かの視線に晒されていると思うだけで吐き気がする。
「……カイ」
「ん?」
横で何気なく見上げたカイが、すぐに表情を引き締める。
「は?、これっ………誰がっ………」
俺は言葉を挟ませず、端末を取り出してダイヤルを押す。
一コールも鳴らないうちに、広報課の人間が出た。
「おい、第二エリア、区画Cの現場でハレが写ったのポスターを確認した。今すぐ国内全域から撤去しろ。印刷データ、写真、全て現場対策部門の保管庫に移せ。二度と使用するな。以上だ」
要件を言い切ると、返事を待たずに通話を切る。
ポスターを剥ぎ取り、丸めて手に収める。
「……どこの馬鹿だ?ハレを募集ポスターに使った奴は」
カイが苦笑しながら頭をかいた。
「俺の許可なく、晒した奴見つけておけ」
それだけ告げ、俺はポスターを持ったまま歩き出した。
背後でカイが小さくため息をつくのが聞こえたが、気にしなかった。
エレベーターが50階で止まり、扉が開く。
先に降りたカイが、奥から漏れる声に足を止めた。
「……おーい、何してんだー?」
エレベーターを降りた瞬間、視界が色で埋まる。
リビング中央で、ハレが淡いブルーのワンピースをひらりと回し、リオが拍手していた。
「わぁ!可愛い可愛い!」
「でしょ〜? 次はこれ!」
床には買い物袋が山を作り、服や靴、小物が散乱している。
その中心で、ハレは楽しげに笑っていた。
「……」
俺は数歩だけ近づき、リオを鋭く見る。
その視線に気づいたのか、リオは肩をすくめて言い訳を始めた。
「つい………。全部似合うし、ハレが嬉しそうだから──」
俺は無言でリビングを横切り、自室へ向かう。
クローゼットから、いつも自分が着ている黒のパーカーを取り出した。
戻ると、ちょうど次の服に着替えようとしていたハレの前に立つ。
その頭からすっぽりとパーカーをかぶせ、フードを深く引き下ろす。
「……レイ?」
「こんな可愛いハレ、誰にも見せるわけにはいかない」
ハレは一瞬きょとんとし、それからふわっと笑った。
フードの影で、頬がうっすら赤く染まっていた。
この時はまだ――
守れると、思っていた。




