紫月花の非情――25
薄いカーテン越しに差し込む朝の光が、まぶたをゆっくり刺す。
浅く息を吐き、枕元のスマホを取った。
時刻は6時を少し過ぎたところ。
ベッドの右側に視線を落とすと、シーツの膨らみに沿って眠っているのは、無防備すぎるハレの横顔だった。
長い睫毛が微かに震え、唇は小さく開いている。寝息に合わせて胸が上下し、そのたび髪が肩からさらりと流れ落ちた。
——いつまで見ていても、飽きない。
この輪郭を目でなぞる行為が、自分に許された唯一の贅沢だ。
「……ハレ、朝だよ」
髪を指で梳き、声を掛ける。
「………ん、まだ眠いよ」
「起きるんだ。今日は一緒に行く日だろ?」
「あと五分だけ……」
「その五分も俺のものだ」
そう囁けば、ハレは小さく笑って、ゆっくり起き上がった。
俺はそのままベッドを離れ、キッチンへ向かう。
冷蔵庫を開け、卵を3つ取り出す。ベーコンを薄く切り、
熱したフライパンに並べると、油の弾ける音が室内に広がった。
パンはトースターに、コーヒーはサーバーでじっくり淹れる。
「いい匂い〜」
寝室から出て来たハレ。足音でわかる。まだ半分眠っている。
食器棚を開けかけたハレの手を止め、椅子に座らせた。
「座ってろ。食器は俺が並べる」
「……ありがとう」
その一言で、手間なんてどうでもよくなる。
皿にはこんがり焼けたトーストとスクランブルエッグ、ベーコン、色鮮やかなサラダ。
ハレの前にマグカップを置き、コーヒーとミルクを注いだ。
「……いただきます」
「いただきまーす」
食卓は、軽いハレの話と、俺の相槌で満たされる。
仕事の話題は一切出さない。今はただ、この時間を普通の朝として過ごすことが2人の癒しでもある。
朝食を終えたハレは、鏡の前に立ち、自分で髪を結んでいた。
相変わらず酷い結び方だ。
「……こんな感じでいいかな?」
「……違う。貸せ」
背後に回り、乱れた束を解いて指で梳き直す。
ゴムで結ぶ手つきは無駄がなく、仕上がりは一瞬だった。
「レイはやっぱり上手だね!」
「最初から俺にやらせればいいだろ?」
「少しは自分でやらないと……でも、ありがと」
髪を整えた後はネクタイ。
器用に見える細い指、だがこれも下手。
左右の長さがぐちゃぐちゃになるのを見て、口元が緩む。
「……不器用すぎ」
「むぅ……」
手から奪い、きゅっと結び直す。
わざと時間をかけて結ぶ。距離の近さを、彼女が意識するくらいに。
「……俺以外には触らせない」
「……そういうこと言うの、ずるいよー」
制服の襟を整え、端末を確認する。
「今日も大丈夫かな?」
「完璧。今日も俺のハレが一番可愛い」
「知ってる。だってレイが可愛くしてくれるんだもん」
タワーマンション最上階の50階。
玄関のロックを解除すると、
廊下の先に広がる共同リビングが静かに待っていた。
この階に住むのは、俺とハレ、カイ、リオの4人だけ。
表向きは高級マンションだが、実態は現場対策部門の最前線。
最上階から3フロアがS級専用で俺たち意外は立ち入ることすら出来ない。
危険人物をまとめて管理しようという庁の魂胆らしいが、
俺たちにこの壁が意味を成すわけない。
ソファに腰かけていたカイが、俺とハレを見て笑う。
「お、今日は二人一緒なんだ」
「うん!レイと一緒なの!」
俺が答える前に、ハレが笑って答える。
「半月に一回の検査だ」
リオはマグを持ったまま近づき、ハレを上から下まで眺める。
「なるほどねぇ、研究部門が喜びそう」
「……あんまり覗き込むな」
俺の声に、リオは肩をすくめて距離を取った。
いつもならここから俺一人でエレベーターに乗り、本庁舎の朝礼に向かう。
だが今日は、ハレと一緒。
彼女の検査がある日は、必ず俺が付き添う。
俺の隣はハレだけ、それが庁内の共通認識だ。
視線を向けるだけで牽制になる俺が、
彼女と並んでいる光景は珍しく、逆に目を奪うらしい。
乗り込んだエレベーターの扉が閉まると、虹彩・ID・霊力の三重ロックが順に光り、ゆっくりと下降が始まった。
48階で一度降り、倉庫で武器を確認しているとハレが袖を引く。
「レイ、ポケット用に、いい?」
「……一つだけな」
即答すると、ハレは駄菓子の小袋を一つ取り、ポケットに入れる。
俺は再度その手を握って、そのまま離さなかった。
エレベーターを15階で降りる。
ここにはS級タワーと本庁舎をつなぐ連絡ブリッジがある。
透明な強化ガラス越しに見える官庁街は、すでに忙しない。
この静かなタワーとの間にある橋を渡るたびに、
別世界に踏み込む感覚がある。
ゲートで再スキャンを受けると、
周囲の視線が一瞬こちらをかすめ、すぐ逸れる。
今日は少しだけ、その視線が柔らかい。
だが、もし不用意に近づく者がいれば……
俺はその瞬間も手を離すつもりはない。
本庁舎22階――部門合同会議室。
扉が開くと、わずかなざわめきが起こった。
視線は俺じゃなく、その隣を歩くハレに向かう。
「……今日はハレちゃんも一緒かっ!」
そんな小声が、机の端や資料の陰から漏れる。
まるで暴風警報が急に晴れマークに変わったかのような、緩んだ空気。
こいつらも良く分かってる。
普段の俺がここで口を開けば、
甘えた予算案は粉々にされ、悠長な進捗は叩き潰される。
それでも必要だからやっている。
けど今日は違う。ハレがいる。
無意味な衝突で時間を潰す気はない。
席に着き、資料を一瞥。
「後で目を通しておく」
短く、それだけ。
担当者の顔に、分かりやすい安堵が浮かぶ。
本来ならもっと詰めるべきだが、今はこの程度でいい。
その横で、ハレが資料の端をじっと見ていた。
俺は声を落とし、彼女にだけ聞こえるように言う。
「退屈じゃないか?」
「ううん。……レイが優しくてカッコいいなって思って」
「ハレが居るからだよ」
「そう?レイはいっつもかっこいいし優しいよ?」
「そんなことはない」
「そう?」
「そうだ」
視線がぶつかる。わずかな間のあと、ハレは小さく笑った。
朝礼は驚くほどスムーズに進んだ。
退出時、すれ違った若い職員が、ほっとしたように息を吐いているのが見える。
ハレには醜いものを見せたくない。
会議室を後にした俺とハレ。
今日はこのまま研究部門によってハレの検査だ。
エレベーターへ向かう廊下で、ちらりと視線を感じる。
幹部も下っ端も、ハレが隣にいるだけで空気が柔らかくなる。
普段なら俺の一声で場が凍るくせに、単純なものだ。
「レイ、今日の検査って長いのかな?」
「……早ければ一時間掛からない。頑張れるか?」
「うーん。頑張るよぉ」
口を尖らせる横顔を見て、小さく息を吐いた。
エレベーターが開き、俺たちは22階から11階へ降りる。
扉が開けば、研究部門特有の乾いた薬品の匂い。
白衣姿の職員たちが行き交い、こちらを見てはすぐに目を逸らす。
この階にいる全員が知っている。
ハレを不用意に近づけさせない、それが俺の暗黙のルールだ。
「おはようございます、ハレさん、レイさん」
先頭に立っていた主任が、わずかに柔らかい笑みを浮かべながら一歩下がり、検査室のドアを開けた。
ハレが中へ入るのを見届け、俺も続いた。
検査室のドアが閉まると、外のざわめきが一気に遠のいた。
室内は白で統一され、計測器のランプが淡く光っている。
主任とスタッフが立ち上がり、同時に頭を下げた。
「本日は霊力波形と霊核安定度の定期測定を――」
「生検は行わない。スキャンのみだ」
俺が遮ると、主任の肩がわずかに強張った。
「……承知しております」
視線を外さないまま、もう一度条件を突きつける。
「痛みを伴う手法も、傷がつく可能性のある機器も禁止だ」
「はい」
この条件は絶対に譲らない。
ハレが簡易ベッドに腰を下ろし、袖を少しまくる。
センサーの金属面が手首に触れ、淡い光が広がった。
モニターに波形が滑らかに流れていく。
主任が小さく頷き、数値を記録した。
続いて頭部スキャン。
リング状の装置がゆっくり回転し、霊力反応を立体化する。
ハレは動かないまま、ずっと俺のほうを見ている。
「安心しろ、終わるまでここにいる」
「うん」
最後は霊核安定度チェック。
胸元に共鳴器を近づけると、低い音とともに安定の文字が浮かび上がる。
主任が端末を俺に差し出した。
「本日も異常なしです」
「分かった」
俺は結果を確認し、ハレの肩に手を置く。
「終わった。行くぞ」
「うん!」
ドアを出る直前、振り返らずに一言だけ落とす。
「データはすべて、俺の端末に送れ」
短い沈黙の後、主任の声が追ってくる。
「……かしこまりました」
廊下に出た瞬間、ざわめきがまた少し遠のいた気がした。
俺の中で優先順位は変わらない
ハレの安全が最優先だ。
50階、S級フロア――
エレベーターの扉が開くと、磨き込まれた床に柔らかな絨毯が敷かれたホール、その奥に広がる共同リビングが出迎える。
窓一面に広がる青空と街の景色。
昼間は自然光が溢れ、夜は街の灯りが足元まで降り注ぐ、ここは、4人だけの居場所。
「おかえりー」
共同キッチンカウンターの向こうで、カイが片手を上げた。
テーブルにはいつの間にか皿が並び、洋風の焼き菓子が山のように盛られている。マドレーヌ、フィナンシェ、そしてカヌレ。
「どーよ!俺の新作!!」
「……おいしそう!」
ハレはテーブルに近づき、香りに引き寄せられる。
俺は淹れたてのコーヒーをハレの前に置き、当然のようにミルクと砂糖をスプーンで落とす。
「はい」
「……ありがと」
混ぜるのも俺の役目。カップの中で色がゆっくりと変わっていくのを、ハレはじっと眺めていた。
リオは向かい側の席に腰を下ろし、フォークでカヌレを突きながら笑う。
「なんか今日、やけに仲良いな〜」
「いつも仲良いでしょ」
ハレが俺の腕を掴んで即答する。
「まあな。……でも、この空気のあとにレイが仕事行くってなると、ちょっと大変そうだなぁー」
カイが焼き菓子を頬張りながら俺を見る。
「で?今日は午後から?」
「今から」
「現場?」
「会議だ」
俺は短く答え、カイとリオに視線を移す。
「……頼む」
二人は同時に「了解」と頷いた。
「え、レイ……行っちゃうの?」
ハレがコーヒーカップを両手で包み、少し潤んだ目で俺を見上げてくる。
心臓を軽く握られたような感覚が走る。
「すぐ戻る」
「……約束?」
「約束だ」
指先だけ軽く触れ、俺は立ち上がった。
背中に視線を感じながらも、エレベーターへと乗り込む。
すると浮かんでくるのは先程、目を通した資料。
訂正箇所が多すぎる
「まともに仕事が出来る奴は居ないのか……」
本庁舎のエレベーターが22階で止まると、
廊下の空気がわずかに張り詰めた。
会議室の扉を開けた瞬間、数十の視線が一斉にこちらを向く。
現場対策部門、研究開発部門、情報分析部門、
庁内の主要部門が顔を揃える場。
議題よりも、俺という存在への一挙手一投足に注がれる視線の方が多い。
「お疲れ様です、レイさん」
「先日の件、大変助かりました」
「もしよければ、また――」
差し出される言葉はどれも柔らかく、下心が透けて見える。
全ての派閥が、俺を自分たちの側に引き込みたい。
その理由も裏の思惑も、痛いほど分かっている。
「……時間の無駄だ。座れ」
不機嫌そうに声を出せば、場が一瞬で静まり返った。
議題が進む。
「現場対策部の予算案ですが――」
「二割、研究開発に回せ」
「しかし、それでは我々の……」
「現場は回る。根拠はこれだ」
机上の端末に映し出された出動データと成功率のグラフ。
反論の芽は数字で摘み取られ、媚びる笑みも薄れていく。
俺は一切の派閥に肩入れしない。
ただ正しいと思う方向にだけ舵を切る。
それが、全員を味方につけたい連中にとって最も厄介で、
同時に魅力的にも見えるらしい。
会議が進むにつれ、空気が研ぎ澄まされていく。
朝、ハレが隣にいたときの柔らかさは欠片もない。
今の俺は、数字と事実だけで相手を切り捨てる冷徹な奴。
「この案件、報告が遅すぎる。明日中に全データを揃えろ」
「そ、それは……現場の確認に時間が……」
「不要だ。既に俺が監視網で把握済みだ。残りはお前たちの作業だけな筈だが?」
容赦はしない、逃げ場も与えない。
幹部陣はニヤリとし、下っ端たちは胃を押さえる。
だが同時に、その正確さと速さに目を見張る者も少なくない。
これが、ハレのいない時の俺。
霊対庁現場対策部門幹部のレイ。
誰も近づきたがらない、庁内最強の人間兵器とも陰で叩かれている。
無駄な休憩も取らず、端末を操作しながら次々と指示を飛ばす。
予定より早く会議を締めくくると、椅子を引き、静かに立ち上がった。
「以上だ。各自、即時着手しろ」
背中を見送る者たちは、安堵と畏怖が入り混じった表情をしていた。
S級タワー最上階のエレベーターの扉が静かに開いた瞬間、
待っていたのは弾けるような笑顔だった。
「レイっ!」
ソファから勢いよく立ち上がったハレが、小動物みたいに小走りで駆け寄ってくる。
髪の先が跳ね、瞳が輝く。
その姿だけで、さっきまでの重苦しい空気が嘘みたいに消えていった。
両手をぱっと広げて、勢いのまま俺の胸に飛び込むハレ。
細い肩を抱きしめると、耳元で小さな声が弾んだ。
「遅かったぁ…」
「ごめんごめん。」
自然と口元が緩み、手を伸ばしてその頭を撫でる。
「いやいや、二時間も経ってないだろ」
カイが呆れ半分に笑いながら突っ込む。
ハレが俺の胸元に顔を埋め、少し拗ねた声で続けた。
「私にとっては、すごく長い時間だったの。寂しくて……死んじゃうかと思った」
その言葉と共に、腕が無意識に強く抱き寄せる。
「……もう二度とそんな思いはさせないよ」
低く囁いた声に、ハレの頬がゆるむ。
「……はいはい。どうせハレが待ってるからって、無茶突きつけてきたんだろー?」
「無茶なんて突きつけてない。ちゃんと猶予も残してやった」
リオがマグカップを片手に笑い、視線をレイとハレの繋がれた手に落とす。
「絶対、他の職員泣いてるやつだね」
ハレはただ嬉しそうに笑っている。
この笑顔のためなら、いくらでも仕事を片付ける。




