紫月花の日常――22
祭と円はもう戦いを始めている。
正直に言えば、俺は二人よりも弱い。
ここにいる誰よりも、俺が一番弱いと思っている。
だけど、目の前に立つ男――
レイは、いまだに動こうとしない。
攻撃を仕掛けてくるわけでもなければ、花やカイを助けに行くわけでもない。
ただ静かに立ち、少しだけ、冷めた笑みを浮かべている。
「お前……おかしいんじゃないか?」
思わず声をかけると、口角をわずかに上げた。
なんだよ、その余裕。意味がわからねぇ。
「こんな状況で笑ってられるやつなんて、普通いねぇだろ!」
拳を握り締めて叫ぶ。
するとレイは、まるで当たり前のように冷静に言った。
「そうか? これが俺の平常運転だが」
表情一つ変えず、淡々と。
「はぁ!? 花が戦ってるんだぞ!」
その言葉に熱くなり、俺は木刀を振り下ろした。
だが、どこから出したのかわからないナイフで、レイは俺の木刀を軽々と受け止める。
「仮にもっ、自分の女だろ!」
何度も木刀を叩きつけるが、届かない。
レイは完璧な動きで受け、避け、いなし続ける。
澄ました顔のその目には、熱がまるで宿っていなかった。
木刀に触れるレイのナイフからは、冷たさが伝わってくる。
「そうだな、ハレは俺のものだ」
言葉に重みがある。
「じゃあ、なんで花に戦わせるんだよ!」
大事な仲間を……
好きな女なら尚更。
戦わせない、守るのが男ってもんだろ!
レイは答えた。
「ハレの戦いは美しい。見ていて心地いいほどにな」
「はぁ……!?」
俺は腕に力を込め、木刀を加速させた。
風を切る音を響かせて振り下ろすが、レイはまだ攻撃をしてこない。
同時に俺の頭は回転する。
この男、確かに強い。
だが、さっきから受け身ばかりで一度も攻撃してこない。
戦闘が苦手……か?
いや、俺より格段に強いはずだ。
つまり………
俺たちを敵として認識していない。
雑魚の石ころくらいにしか思っていないということだ。
「くそっ……!」
確かに、俺は祭や円に比べれば弱い。
でも、俺はこの三人の中で頭は一番回る方だ。
どれだけ力の差があろうと、状況をひっくり返すには頭しかない。
敵は何倍も上手い。
でも、今は油断している。
その隙をつくことができるかもしれない。
考えろ。考えろ。もっと考えろ。
——ドンッ!!
レイのナイフに木刀がピタリと止められたその瞬間、俺は気付いた。
こいつの重心がおかしい。
普通、こんな打撃を受ける時は、利き足を引いて身体を支えるはずだ。
ところが、こいつはどっちの足も引かず、よろめきもせずにただ立っているだけだ。
いや、若干右に重心が寄りすぎているのか?
右手にナイフを握っているから、右利きなのは間違いない。
でも、その割には右側に体重がかかりすぎている。
――もしかしてっ!!
俺は自分の出せる最速のスピードで木刀を打ち込んだ。
もっとよく観察して、もっと考えろ!
レイは攻撃してこない。
避けるか受けるかだけ。
何度も何度も打ち込むうちに、俺はパターンを読み解いた。
やっぱりこいつは——
「——おらぁぁぁあああ!!」
俺は必死で木刀を振り抜く。
全ては計算の上だ。
目の前の男の動きを解析し、ギリギリまで追い詰める。
そして、ついに生まれた一瞬の隙。
僅かに左に傾いた重心を、俺は見逃さなかった。
最高速度で鋭い太刀筋を放つ。
「見え見えなんだよッ!! 左足、痛めてんのはよぉ!!」
俺の全てを込めて左側へ集中し、最速で木刀を唸らせて振り下ろした。
だが、その刹那——
「……っ」
木刀は止まった。
力は込めているはずなのに、まるで何かに封じられたかのように。
「やはり君は、俺と似たタイプだね」
静かな声で、レイが言う。
「頭の回し方が上手い。よく見て、よく考えている。
だが、それは俺の最も得意とするものだ」
——ドンッ、ドンッ、ドドドンッ!!
ナイフの握られていない左拳が、重く、鋭く、正確に俺の身体を打ち叩く。
呼吸が苦しくなる。
痛みよりも、恐怖が先に駆け巡った。
そんな俺を見て、レイはどこか嬉しげに笑った。
「聞き手じゃない左で圧勝してこそ、美学だろう?」
その笑顔は変わらず、俺の全ての読みを完全に読み切っていた。
全てはこいつの掌の上だった——
「――クソォッ!!」
――
「……うわ、終わったじゃん。集くん、残念~」
リオは無邪気な声で、ポテトスナックをぽりぽりと食べ続けている。
彼女の視線の先には、木刀を落とし、
腹を押さえ、ゆっくりと地面に崩れ落ちる少年の姿があった。
「ふふっ。左縛りとか……またつまんないこだわり発動してるじゃん。そういうの、先に言ってくれたら私でもできたのになー♪」
リオは笑いながら、空になった袋をぎゅっと握りつぶした。
竹中集。
目の良さ、洞察力、立ち回りは悪くなかった。
だが、それだけじゃレイには勝てない。
「うちのレイだよ?誰がどうやって勝てるって言うの?
感情も理性も全部超越して、計算し尽くされた地獄の王だよ?」
リオがくしゃくしゃにした袋を放ると、袋は宙を舞い、それを追うように、リオから鋭利な何かが飛び出して、一瞬で袋は粉々に砕け散った。
「まぁ、嫌いじゃないけどね?そういうの。でも今回は自業自得だよね。自分に酔いすぎて相手の力量を読み違えた。まあ、レイを読める奴なんて存在しないけど〜」
リオは軽やかに立ち上がり、柵にもたれかかる。
その顔は楽しそうで、けれど下の戦いの殺気はしっかりと感じ取っている。
「なんか喉乾いたなー」
***
ドガッッ——
俺は目の前の花の攻撃に耐えていた。
「ぐっ……!」
蹴飛ばされて地面に這いつくばりながらも、必死に力を込めて立ち上がった。手は震え、膝はガクガクしているが、それでも立つ。
立つしかなかった。
拳を握り締め、歯を食いしばる。
目の中に、ひと筋の光が灯った。
絶対に、諦めねぇ……!
花を、連れて帰る……!
「へぇ~、まだやるんだ?」
花がくるりと振り返り、勢いをつけて走ってくる。
——バギッ!!!
再び、俺の身体は吹き飛んだ。
もう何回飛ばされたのか、わからなかった。
——ねぇ、まつりっ!
咄嗟に浮かんだ昔の花の顔。
屈託のない笑顔で俺を見つめ、俺の名前を呼ぶ花。
あの頃の花はもういないのか……。
俺の大したことない話を楽しそうに聞いてくれたのに。
一生懸命、俺の名前を石に刻んでくれたのに。
間違いなく、俺たちが贈った指輪が目の前で揺れているのに……。
どうして……?
ドゴッ——
なんで……
バキッ——
なんでだよっ……!
——ドガンッ!!
幼い花の笑顔が目の前の花の顔と重なる。
あの笑顔が、あの手が、今は血に染まり、
俺を殺そうとしている。
「……っ……花、なんで……?」
ぐちゃぐちゃになった顔で、叫んだ。
だが、
拳も、
声も、
届かない。
グサッ——
「祭ぃーー!!」
「祭っっ!!」
集と円の声が聞こえた。
視線は花から外せない。
でも、その声は悲しみを含んでいて、泣いているように聞こえた。
なんだよ、
お前たち、泣いてんのか……?
どうしたんだよ……。
あ、そっか。
いつの間にか、俺は地面に仰向けに倒れていた。
胸に刃が刺さっている。
身体が急に冷たくなっていく。
口の中が溺れるように苦く、
身体から込み上げてくるのは血か?
言葉にならない音を立て、
ゆっくりと胸に刺さった刀が引き抜かれた。
ああ、俺、
刺されたんだ。
もう死ぬのか……。
死を自覚した瞬間、
身体が熱くなった。
ふと腹部に重みと暖かさを感じる。
目を向けると、俺に馬乗りになっている花がいた。
まるで自分が何者かさえ理解していない瞳で、
ただ、そこにいる俺を見下ろしているみたいだった。
刃の重さすら気にしていないように、ハレはゆっくりと刀を握り直した。
「ねぇ、知ってる?」
…え?
その声は子供に囁くような、優しい音だった。
昔一緒に遊んでた時に、よく花が言っていた言葉。
ああ、やっぱりお前はハレなんかじゃない。
記憶を失い、あいつらに弄ばれ、
壊されてしまったんだろう。
大丈夫だ。
俺がお前を守るから。
お前はハレじゃない。
お前は花、紫月花なんだよ……。
一緒に帰ろう?
声は出なかった。
だから、せめて目で語った。
すると、花はふっと笑った。
昔見た花の笑顔と同じだった……。
良かった。
「あのね?心臓って表面から5センチなんだって。……でも骨とかあったら、もうちょっとあるかもね?貴方は何センチかな?」
そう言いながら、彼女は刃を真っ直ぐに突き立てた。
——グシャッ。
気持ちいいほどよく切れる音。
骨の軋み、肉の裂ける感触——
そして、なにより、魂が震えるのを肌で感じた。
「……は、な……っ」
吐き出した声はもうろうとした意識の中、残った俺の最後の言葉だった。
だが、花の顔に浮かぶのは、理解すらしていない微笑み。
「だからそれ、誰?」
瞬きを一つ。
笑うでも怒るでもない、まっさらな表情。
「私は、ハレだよ?ハー、レ!」
刃はもう一度ねじ込まれた。
グリ、グチャ――ッ。
心臓の鼓動が消えゆくような感覚を味わい、花は立ち上がり、俺から離れていった。
俺は立ち上がった花の足に最後の手を伸ばした。
血に染まった指先で花の足を掴み、
必死に止める。
花は振り返り、小さく首をかしげた。
そして呟いた。
「……あ、もしかしてバイバイしたいの?」
くすっと笑う。
「……要らないよ?だって………
ゴミを捨てる時に、さよならなんて言わないでしょ?」




