74 忘れていた記憶①
母イザベラが亡くなってからというもの、シーラは義母セレナの虐待の下で常に怯えながら暮らさなければならなかった。
頼みの綱であったローガンも大怪我を負って来れなくなってしまったし、彼女は一度に大切な人たちを全て失ってしまった。
――しかし、そんなシーラにも、一つだけ楽しみと呼べるものが存在した。
(今日はお父様もお義母様も……アメリアも家にいない)
ある日の正午、彼女は家族たちが全員出かけていて不在だということを察する。
オリバーとセレナ、そしてアメリアは月に一度必ず家族揃っての外出をしていた。
そこにシーラはいない。本来なら悲しむところだが、彼女にとってはむしろ都合が良かった。
三人が出かけた後、シーラは外出の準備を始めた。
「お嬢様、今日も王宮へ行かれるのですか?」
「ええ……お父様とお義母様には」
「わかっていますよ、もちろん内緒にしておきます」
侍女は唇に人差し指を当ててニッコリと微笑んだ。
――シーラがこっそり王宮へ行っていたことは、彼女と使用人たちだけの秘密である。
***
アンダーソン家の馬車が王宮に着き、シーラはそっと馬車から降りた。
彼女が真っ先に向かったのは同年代の王太子妃夫妻の子供たちの元ではなく、本宮から離れたところにある寂れた離宮だった。
手に小さなバスケットを持って離宮に足を踏み入れた彼女は、そこで少し年上のある男の子と出会った。
「殿下!お久しぶりです!」
「……お前、また来たのか?」
庭で暇つぶしをするかのように、白い王子服を汚しながら土いじりをしている男の子。
とても王族だと思えない彼は、紛れもなくこの国の王子殿下である。
「今日は美味しいおやつを持ってきたんです。ウチの使用人が作ったお菓子は世界で一番美味しいんですよ」
「……俺がそんなもの食べるとでも?」
――ロイド・オルティネス第二王子殿下。
この頃の彼はまだバースウッドではなく、オルティネスという王家の姓だった。国王陛下の第二子であり、既に成人済みの王太子殿下の二十下の異母弟。
シーラはたまたま父と登城した際、道に迷ってしまって気付けばここまで来たのだ。
そのときに出会ったのが、まさにロイドである。王族が住んでいるとは思えないほどに寂れた離宮で、彼女は彼と初めて出会った。
『だ、誰だ!近づくな!』
『わ、私は怪しい者ではありません!』
出会った頃のロイドはみずぼらしい姿をしていて、シーラを警戒し、ただただ彼女を遠ざけた。
『く、来るな!』
『キャアッ!』
彼の剣幕に驚いた彼女が後ろに倒れて尻餅をつくと、彼は焦ったように肩をビクッと上げた。
ずいぶん驚かされたけれど、その反応を見るに悪い人ではなさそうだった。
『お、俺は何もしていないからな!不法侵入者のお前がいけないんだ!』
『……』
言葉には棘があって、彼女を怖がらせようとしているのだということが伝わってくる。
だけど……
――物陰に隠れて縮こまるその姿が自分にそっくりで、シーラはとても放っておくことができなかった。
自分よりずっと背が大きいはずなのに、どうしてそんなにも弱々しく感じてしまうのだろうか。
それからというもの、シーラはこっそり王宮を訪れては、彼に会いに来るようになった。
彼と何度も会うようになってわかったのは、彼が両親から虐げられているということ。
父親である国王陛下は卑しい子だとロイドを毛嫌いし、義母である王妃陛下も彼を嫌悪しているそうだ。
実母となる侍女は、彼を育てられる自信がなくて王宮を出て行ってしまった。
――ロイド・オルティネスは、誰からも見放された王子だった。
「お前、俺が怖くないのか?」
「殿下を怖いと思ったことなどありません」
シーラにとってはアルヴィンも大切な友人ではあったものの、彼と比べてもロイドは特別だった。
友人という言葉ではとても言い表せない……同じ傷を分かち合った同士のような存在。虐待された人間は、当人にしかわからない苦しみというものがある。
愛された家庭で育った者たちにとっては、シーラやロイドを理解することなど到底できない。
どれだけ優しい心を持ち合わせている者でも、辛かったね――というその一言で終わらせてしまうのが定例だ。
「美味しいですよ、殿下も食べてみてください」
「毒でも盛ってるんじゃないのか?」
「私がそんなもの持ってくると思いますか?」
シーラがバスケットにかぶせられた布を取ると、手作りのクッキーが姿を現した。
「私が先に食べれば安心ですよね?」
彼女はクッキーを一枚手に取り、半分ほどかじった。
「はい、どうぞ」
「……」
食べかけを王族に差し出すなど無礼極まりない行為だが、シーラはいちいちそんなこと気にしていなかった。
ロイドは食べるつもりなんてなかったが、目を輝かせる彼女を見ると、とても断れなかった。
「……甘い」
一口食べた彼が、ポツリと呟いた。
普段、甘い物を食べているときもここまで甘くはならないはずなのに。なぜ、彼女が持ってきたものだとそれほど甘く感じるのだろうか。
「――ね?美味しいでしょう?」
彼女の笑顔に、彼は釣られるように頷いた。
ロイドは残ったクッキーを口に放り込み、その謎の甘さを噛みしめた。
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